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企画展・ミニ企画展

2017年2月28日 (火)

ミニ企画展「縁側の茶器」(6)

今回の展示品には煎茶の茶器の他に土瓶と呼ばれる、番茶や普通のお茶を入れる茶器があります。以下そのことについて紹介します。

益子の土瓶

栃木県の益子で焼かれた明治時代の土瓶です。丈夫で安い日用雑器が、関東一円でもてはやされました。簡略な山水画が描かれることが多く、「山水土瓶」ともいいます。

Img_9776jpg2 益子焼の土瓶

益子焼は土瓶や土鍋などを作って発展しましたが、大正期の民芸運動で一躍有名になりました。民衆工芸の中にこそ生活の用に即した美がある、と日用雑器の中にある用の美が愛されたのです。益子の土は、栃木県内で取れる粘土をベースにした粗い粘土で、気泡が多いため厚手に作らなくてはならないのですが、それでいて以外と軽いのが特徴です。

Img_9588jpg2 山水画の土瓶(底はすすけている)

益子焼の山水の図柄は、昔ながらのものでしたが、大正時代の皆川マスさんは、絵付けばあさんとして有名になり、10歳から87歳までの一生の間に600万個の土瓶に絵付けをしたと言われています。

Img_9589jpg2 花柄の土瓶にも煤の跡がある

土瓶は番茶を飲むときに用いられます。番茶本来の味を楽しむには、一度煮出すことが必要でので、沸騰した湯を茶葉に注いだ後一分間煮出すか、火にかけたままの沸騰したお湯の中に茶葉を入れます。ですから、展示品の土瓶には火にかけた痕跡があります。底に煤が染みついて、黒くなっているのです。きっと火鉢や七輪にかけたのでしょう。熱い番茶をすする人の顔が見えるような気がします。

汽車土瓶

明治10年神戸駅で駅弁の販売が始まり、明治22年に陶器製の汽車茶瓶が静岡駅で発売されました。なかでも土瓶の形をしたものは汽車土瓶といいます。

大正時代にはガラス製が登場しますが、評判が悪く再び陶器製が復活します。しかしそれまでのような轆轤挽きは手間がかかるので、型合わせで作られ、形も土瓶型から角形に変わります。後にポリ容器になり、缶入りのお茶からペットボトル入りにお茶へと変わって現在に至るわけです。

Img_9593jpg2 汽車土瓶には駅名が書いてある

展示品は新宿駅のものと八王子駅のものです。新宿駅でお弁当を買い、汽車の中でお弁当を食べ、大切にお土産として汽車土瓶を持って帰ってきた人の素朴な人柄が偲ばれます。

2017年2月19日 (日)

ミニ企画展「縁側の茶器」(5)

今日は湯冷ましについて書きます。

湯冷まし

玉露を入れる場合はお湯の温度を50~60度くらいにさます必要があります。それで湯冷ましという道具を使います。熱い温度で入れる煎茶には湯冷ましは必要ありません。また、玉露が生まれたのは天保年間(18301844)のことなので、それ以前には湯冷ましは使われませんでした。

Img_9771jpg2 左から番茶・煎茶・玉露が並ぶ

玉露は甘みのあるまろやかな味が特徴で、緑茶の中では最高級品とされています。煎茶とは栽培方法が異なり、茶摘みの約2週間前の新芽が出始める前から茶畑を葦簾(すだれ)で覆います。直射日光を遮ることで柔らかい鮮やかな緑色の葉ができるのです。覆下園(ふっかえん)から取れた茶は、煎茶よりきわだって鮮やかな緑色をしており、揉み方もふっくらと丸く仕上げます。茶摘みの時期は煎茶より遅く、摘んだ後も寝かせた方がまろやかになるため、新茶の出回るのは十月頃からです。

Dscn9501jpg2 右奥が湯冷まし(九谷焼)

湯冷ましの形は、水差しから取っ手を外したようなものや、片口鉢のようなものがあります。湯の温度を効率よく下げるため、底より口を大きく作ってあることが特徴です。資料館にはなぜか湯冷ましはたくさんあります。急須や茶碗とセットにならない湯冷ましの単品もあります。それだけ玉露を飲む文化がこのあたりにはあったと思われます。

Img_9726jpg2 小さい字で漢詩が彫ってある湯冷まし

そんなとき図書館で出会ったのが小川流煎茶6代目家元の書いた『漱石と煎茶』という本でした。漱石の『草枕』を中心に煎茶の心を説いています。ちなみに『草枕』では煎茶の場面はこんな具合です。

「濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落として味わって見る・・・舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉(のど)へ下るべき液はほとんどない。只馥郁(ふくいく)たる匂いが食道から胃の中へ沁み渡るのみである。」

Img_9486jpg2 湯冷ましと急須(九谷焼)

私も南部町にいた頃、水で出した煎茶を小さい茶碗でいただいたことがありますが、ほんとにびっくりしました。お茶ってこんなに甘くおいしいものだったんだと。(漱石の表現とは比べものになりませんが)漱石も言っているとおり、こういうお茶は飲むものではなく、喫するもののようです。

Dscn9573jpg2 金彩が豪華な九谷焼湯冷まし

煎茶道ではほかにもさまざまな道具を使いますが、家庭でお茶を入れるときには急須・茶碗・茶托・(湯冷まし)で充分です。ちょっと気取っておいしいお茶を入れてみませんか。

 

2017年2月12日 (日)

ミニ企画展「縁側の茶器」(4)

今日は茶碗と茶托について書きます。

茶碗

茶碗は玉露や煎茶用の小ぶりのものと、日常のお茶用の中型のもの、そして番茶用の厚手で大ぶりのものにわけられます。形でわけると釣り鐘形、碗形、盃形にわけられます。

玉露や煎茶用の茶碗はごく少量を味わうにふさわしく、猪口ほどの大きさです。煎茶茶碗は直径4cm前後を目安とし、玉露用はさらに小ぶりのものを使います。(ちなみに抹茶の茶碗は直径10cm以上あります)材質は白磁が最も良いとされます。それはお茶の色がよく映えるからです。

Img_9497jpg2 絵で埋め尽くされた九谷焼の茶器

日常のお茶用の茶碗は磁器でも陶器でも良いのですが、やはり内側のお茶の色が映えるものがよいようです。そうと知って周りを見回すとやっぱり皆さん茶の色が映える茶碗を使っていますね。私の今使っている茶碗は、外側が白くて内側が水色ですから、お茶を飲むには合いません。

番茶の茶碗は、たっぷりの熱いお茶を入れるものですから、大ぶりで厚手のものが適しています。

Img_9693jpg2 手書きの絵がかわいい茶碗

今回煎茶用の茶碗を中心に展示しています。急須や湯冷ましとセットになっているものもありますが、茶碗だけになってしまっているもの、急須だけになってしまっているものもあります。その小さな茶碗や急須には手書きで文様が描かれています。手書きですから並べてみると一つ一つ微妙に違います。染め付け茶碗のウサギや笹の葉を比べて見てください。

Dscn9535jpg2 七福神の茶碗(九谷焼)

また七福神の茶碗は九谷焼ですが、絵を描いた画工さんの名前が「橋田」と糸底にあります。3個しかないのが残念ですが、急須や湯冷ましなどとセットで七福神になっていたのではないでしょうか。非常に繊細かつ大胆な線で描かれ、美しく着彩されています。

Img_9484jpg2 画工は橋田さんという方

茶托

茶碗をのせる台のことで、托子とも言います。茶托の起こりは中国の唐の時代です。当時のお茶は熱湯を用いた上茶碗も大きかったので、直接茶碗を持つのには熱すぎ、そのために作られたのだろうと言われています。

日本の煎茶道では元々は茶托に当たるものはなかったようで、江戸時代中期に杯と杯台が輸入され、それぞれが茶碗と茶托に転用されたようです。

材質は木・竹・籐や銀・錫・銅などがありますが、輸入杯台は錫製が大半だったので、錫製の茶托が最上とされます。

玉露や煎茶には錫製の茶托を用います。黒ずんでいるほうが価値が高く、木製のものは番茶に用います。

Img_9584jpg2 重みのある錫の茶托

茶托については、小さい頃、変な安っぽい金物でできた茶托があるなあ、と思っているうちに、ままごとの皿になり、そのうちどこかにいってしまったという来館者が大勢いました。私もその一人で、私たちの小さい頃はけっこうどこの家でも錫の茶托があり、しかもその価値はすでにわからなくなっていたと思われます。

2017年2月 5日 (日)

ミニ企画展「縁側の茶器」(3)

今日は煎茶の道具についてお話しします。

煎茶の風習は中国から伝えられたこともあって初期には中国から渡ってきた道具を使っていましたが、日本での煎茶の発展や飲まれるお茶そのものの変化に応じて変わってきました。煎茶の器の特徴は、抹茶に比べてはるかに小型、かつ繊細なことです。茶碗一つ例にとっても、片手にすっぽり納まってしまうほどのかわいらしさです。また、肌も透けるほどに薄いものが多く、色絵に代表されるように華やかで、中国風の趣味が生かされています。

煎茶に欠かせないのは、急須、茶碗、茶托の三種類です。玉露を入れるには湯さましが必要です。

Dscn9500jpg2 染め付けの急須(直径は約6cm)

急須

急須の原型は中国で発明され、茶を飲む習慣のある文化圏、特にアジアでは古くから使用されています。日本では江戸後期に広まり、「きびしょ(急焼・急尾焼)」とも呼ばれました。素材としては陶磁器製のものが最も普通で、日本の急須の主流は万古焼き・常滑焼の朱泥・紫泥が占めています。伊万里焼・九谷焼などの磁器や美濃焼・萩焼などの陶器製のものも多く生産されています。

取っ手によって分類すると、

「横手(よこで)」と言われるものがいわゆる急須で、注ぎ口を正面に見て右横に取っ手がつきます。

Dscn9497jpg2 横手の急須(直径は約8cm)

「後手(うしろで・あとで)」といわれるものは、注ぎ口を正面に見て、後方に取っ手がつきます。中国茶や、西洋の紅茶のポットなどによく見られる形です。小型のものを煎茶や玉露に用います

「上手(うわで)」本体上部に取っ手がつきます。一体化しているものもありますが、別個につけるものは、いわゆる土瓶です。

「宝瓶(ほうひん)」取っ手のない急須のようなもので、泡瓶とも書きます。玉露を入れるときに使います。玉露はお湯の温度が低いので、直接手に持っても熱くないため取っ手を必要としません。

横手・後手の煎茶用急須と、上手の番茶用土瓶を今回展示してありますが、宝瓶がないのが残念です。

1jpg2 万古焼の急須(直径約8cm)

写真の紫泥急須は、三重県四日市で焼かれた万古焼です。明治時代の中頃にそれまで使っていた白い粘土を掘り尽くしてしまい、赤土を用いて焼き締め陶器を作ったのが始まりです。

3jpg2jpg2 窯印には寿楽とある

2017年2月 1日 (水)

ミニ企画展「縁側の茶器」(2)

煎茶の歴史

今回のミニ企画展で展示している茶器は、主に煎茶を飲むときの道具です。というわけでまずは煎茶の歴史について書いてみます。

Dscn9111jpg3 ままごと道具のような煎茶の器

中国では、明代(今から約五~六百年前)になると、宋代に盛んであった抹茶は姿を消し、煎茶が盛んになっていきます。文人たちは香り高い煎茶を味わいながら詩を作り絵を描き学問を語りました。

Img_9724jpg2 常滑焼朱泥の茶器「玉人和月」とある

この風習が日本にも伝えられます。茶道の世界において形式化が進みつつあったことに加え、煎茶自体が当時最新の中国文化だったからです。中でも売茶翁と呼ばれた畸人の禅僧は茶道具を持ち、京都のあちこちで煎茶を供し評判となりました。

12jpg2 「玉人和月」のつづきは「摘梅花」

甲府城主として知られる柳沢氏の家臣に有名な柳沢里恭(やなぎさわさととも)という人がいました。この人は文武両道諸芸百般に通じた人で、絵も描き、詩も書き、そして煎茶もたしなみました。甲府のお屋敷でこんな茶器を使って煎茶をたしなんだのかと思うと、なんだか何百年も前の人なのに親しみを感じます。

Jpg2_2 お茶の色が映えるよう内側は白色

一つの文化として盛んになっていった煎茶の世界ですが、その後、煎茶道として一定のルールが生まれるようになり、幕末から明治・大正と最盛期を迎えます。この地域でもこの頃豊かな経済力を背景に煎茶道のようなものを楽しむ人が多かったと思われます。

明治以降は、西洋文化へと移行していったため、日本の伝統文化として受け継がれることになります。

2017年1月 6日 (金)

H28年度「ひな人形展」

Photoこんにちは、まゆこです。

春の恒例「ひな人形展」開催のお知らせです。

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●企画展名 平成28年度第4回企画展「ひな人形展」

●会期 平成29114日(土) ~ 49日((月曜または祝日の翌日は休館)

入館料 大人250円・小中学生100円(幼児と65歳以上無料) 

日本の歌百選に選ばれ歌い継がれている「うれしいひなまつり」には、「男雛」・「女雛」だけでなく、個性豊かな「三人官女」や「五人囃子」「随身」たちも登場しますが、この歌にあるような豪華な段飾りを家庭で飾ることも、現在では少なくなりました。

 

当館の春の恒例となった「ひな人形展」では、江戸中期の享保雛をはじめ、昭和にわたるひな人形の変遷を一堂にご覧いただきたいと思います。

 

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また、250躰を超えるひな人形コレクションには、内裏雛のまわりに飾られた、添え雛といわれる個性的でユーモラスなお人形たちも多く含まれています。

 

江戸時代、山梨県甲府市横沢町には雛問屋が四軒あり、細工物の雛の製作地でした。それらの雛問屋が明治期になり、数多く制作した、素朴で独特の手振りの雛は特に印象的です。かつて「横澤ヒナ」、「横沢びな」と呼ばれました。

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今年のひな人形展では、当館所蔵の横沢で製作されたと思われる雛を、過去文献を踏まえて分析し、その正体に迫りたいと思います。是非、甲州の先人たちの愛した在地雛もじっくりご覧ください。

まゆこ

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2016年12月27日 (火)

ミニ企画展「縁側の茶器」始まります

  寒い季節には温かい飲み物がほしくなります。日本人にとってお茶といえば緑茶ですが、今のように茶を煎じて飲むようになったのは江戸時代になってからです。それまではお茶といえば粉に挽いた茶をお湯に溶かして飲む抹茶のことでした。

Img_9782jpg2 縁側の茶器チラシ

 煎茶は中国明代に文人たちによって盛んになり、日本にも伝えられ日本の文人たちの間にも広まりました。そして幕末から明治にかけて大衆の間に根をおろし茶の世界の主役となりました。

Img_9778jpg2 展示の様子

 小さな急須と茶碗、湯冷ましなど、普段私たちの使う日常の茶器とはちょっとちがったおしゃれな煎茶の茶器をご覧ください。それらを使ってお茶を楽しんだ当時の人たちのゆったりとした心に思いをはせていただければ幸いです。

Img_9766jpg2 かわいらしい茶器たち

 合わせて火にかけて番茶を煎じた益子土瓶や、中央線新宿駅と八王子駅で売られた汽車土瓶もご覧ください。

Img_9781jpg2 土瓶も並んでます

 明日から資料館は休みになります。来年は1月5日から始まります。「縁側の茶器」も5日にはご覧になれますので、どうぞお越しください。それでは良いお年をお迎えください。

 

2016年12月13日 (火)

ミニ企画展「麦を食べる」(7)

 「麦を食べる」のミニ企画展をして、見に来てくださった方とさまざまなお話をし、情報をいただきました。今までのブログにも少し載せましたが、今日はまとめて載せてみたいと思います。

Img_2135jpg2 ハーベスタによる脱穀

 まずは、市川三郷町大塚地区で麦作りをしている方のお話です。東京での会社勤めを定年で辞めてから農業を始めてそうですが、黒米・赤米・緑米などの古代米を作るとともに、麦栽培もしているそうです。

Dscn9180jpg2 大麦にはお世話になってます

 大麦・小麦ともに作っているそうですが、そのほかにスペルト小麦というものも作っています。スペルト小麦はディンケル小麦とも呼ばれる古代麦です。9000年も前から栽培されている品種改良を受けていない小麦で、厚い皮殻が汚染物質から麦を守ります。また古代穀物なので化学肥料等も必要としません。小麦アレルギーの心配がない小麦ということで最近注目され始めている麦です。エゴマも品種改良されていない作物で、育てやすい上に、花粉症やアトピーなどのアレルギーへの危険性を減らせるということで注目されていますが、これからは古代作物の時代なのではないかなと思いました。

Dscn9179jpg2 麩は小麦のグルテンで作る

 この方は自家用に米や麦を栽培しているのですが、肥料用に育てたライ麦をパン屋さんに分けてあげたこともあるそうです。機械は米作りと兼用で、大麦の精麦も精米器を使って行うそうです。売っているもののようにきれいにはならないけど、食べるには十分だそうですので、やってみる価値はありそうです。

Dscn9182jpg2 売ってるところを聞かれる麦ポン

 もう一人の方は甲府のパン屋さんです。最近小麦粉のグルテンが体に与える影響が取りざたされていますが、実はパンをグルテンの多い強力小麦粉で作る必要はなく、国産の地粉で充分作れるのだそうです。日本では柔らかいパンほど良いパンだという思い込みがあるけれど、外国では、かむことによってあごを丈夫にし、唾液もたくさんでる硬いパンが食べられているそうです。確かにフランスパンやドイツパンは硬いですよね。わたしの友人も自分で育てた小麦でパンを作っていますから、地粉でいいんですよね。あとで調べたらそのパン屋さんは、自分たちでライ麦を作って使っていました。

Dscn9176jpg2 明治20年の農業日誌

 麦のことに今取り組んでいる人が見に来てくれて本当にうれしいことでした。中央市のあたりは、水田の裏作や、畑作で麦をたくさん作っていた地域です。また、「はくばく」のカントリエレベターもある麦に縁の深い土地です。たまたま展示を見てくださった市長さんからは、休耕地をまとめて麦を作ることができないか考えているというお話を聞きました。そうなればわたしたちは国産の小麦をもっと食べることができるようになるかもしれません。

Dscn8864jpg2 「はくばく」の麦貯蔵庫

2016年12月10日 (土)

ミニ企画展「麦を食べる」(6)

今日は麦を使った伝統的な食品を紹介します。

Jpg2 押し麦入りの麦ご飯

麦飯(むぎめし・むぎいい・ばくめし・ばくはん)・麦ご飯

大麦は、なんといってもご飯に混ぜて炊くのが主な用途でした。当時の大麦はご飯の中の邪魔者的存在でしたが、現在は、健康食品と言われ、高価なものもあります。

麦飯にする大麦は古くは挽き割りでした。殻を剥(む)いた大麦を石臼で挽(ひ)いて細かく砕いたものです。大正から昭和初期には精米所に押し麦を作る機械が導入され、精白した大麦を加熱圧迫した、中央にスジのある押し麦が食べられるようになります。

現在は米とそっくりに加工した米粒麦などもあり、麦飯は食物繊維、タンパク質、ビタミンを多く含む健康食品として見直されています。

徳川家康や昭和天皇は生涯麦飯を食べたことで知られ、二人とも長寿健康でした。

Dscn45392 スーパーで手に入る麦こうせん

麦こがし・麦茶

麦こがしは大麦を焙烙(ほうろく)で炒って臼で搗(つ)き、芒(のぎ)や殻を取り除いてから粉に挽いたもので、炒ることによって香ばしさが出ます。はったい粉・煎り麦・香煎(こうせん)などとも呼ばれます。かつては子どものおやつとしてなじみ深いものでした。

Jpg2_2 練った麦こがし

 砂糖を少し入れてお湯で練ります。甘くて香ばしくて懐かしい味です。展示を見た方たちも「子どもの頃食べたよ」とか、「おばあちゃんたちが買ってくからうちの店でも売ってるよ」とか、「食べてみたいから売ってるとこを教えて」というような反響がありました。

Dscn7547jpg2 大麦で作られた麦茶

麦茶は麦湯とも呼ばれ、平安時代の貴族たちにも飲用されていました。江戸時代には屋台の麦湯売りが流行します。現在は水出しのティーパックやペットボトル入り麦茶が、ノンカフェイン飲料として人気です。体温を下げ、血流を改善する作用があります。

麦茶が大麦でできているということを知らないという人は多かったですね。今はパックに入っていて中身は見えませんからしかたないのかもしれません。でも自分で炒った麦茶は麦の味が口いっぱいに広がります。

 

Dscn57063 自家製小麦のおざら

ほうとう・おざら

ほうとうは山梨の代表的郷土料理です。のしこみ・のしいれとも呼ばれます。生地はねかさず、塩も混ぜ込まない麺を、かぼちゃなどの野菜や油揚など、具をたくさん入れた味噌味の汁で煮て作ります。日常食としてのほうとうは、麺より野菜の方が多く小麦粉の消費量を押さえた食事でした。長野・群馬・埼玉・静岡には、醤油味の煮込み麺料理があります。

Dscn45942 麺をのす「のし板」「のし棒」

Dscn45982 一家に一台「製麺機」

おざらも山梨の郷土料理のひとつで、ざるうどんのように、麺をつゆにいれて食べます。おつゆには野菜・きのこ・油揚などの具をたくさん入れます。小麦の消費量が多いので特別な日や来客時にふるまわれるぜいたくな料理でした。

Dscn57062 餡入り小麦まんじゅう

 

まんじゅう

まんじゅうは室町時代に中国から伝わりましたが、日本では中に甘い小豆餡(あん)か野菜の餡が入れられます。まんじゅうは夏祭りに各家庭で作られることが多く、古くはゆでまんじゅうといって小麦粉の生地で餡を包んで熱湯でゆでるというものでした。後には蒸して作るようになります。まんじゅうをふっくらとさせるためには、甘酒を使ったり、重曹を使ったりしました。甘酒を使ったものを酒まんじゅうといい、重曹を使ったものを薬まんじゅう(炭酸まんじゅう)といいます。

Dscn45972 小麦料理に欠かせない「ごん鉢」

 おやきは小麦粉や雑穀の皮で餡を包み焙烙で軽く焼いてから囲炉裏(いろり)の灰に埋めて蒸し焼きにしたものです。餡は野菜や山菜などです。

2016年12月 1日 (木)

ミニ企画展「麦を食べる」(5)

伝統的な麦作りの道具

麦扱き(むぎこき)

麦用千歯扱き(むぎようせんばこき)のことを言います。千歯扱きは日本で江戸時代に発明されました。歯(穂)は一挺あたり17~27本(奇数本)あり、江戸時代のものは平らな長方形で幅広く短い歯です。明治時代からは面が取ってあったり、鎗のような形になったりするなど改良されました。

Jpg3 千歯扱きで小麦を脱穀する

大麦は千歯扱きで穂先だけをちぎりとりますが、小麦は米と同じように粒になりました。稲用千歯扱きより歯と歯の間が広く、稲用は1.5mmくらい、麦用は3mmくらいの幅があるそうですが、兼用で使う場合も多かったようです。

大正時代に足踏み脱穀機が普及して千歯扱きは製造されなくなりました。

Img_9461jpg2 麦用は隙間が広い

麦打ち棒(むぎうちぼう)

米・麦の脱粒・脱芒(だつぼう)や豆類の脱粒に使いました。全国的には、連枷(れんか)・唐竿(からさお)と呼ばれる道具(関東地方ではくるり棒・ぶり棒など)で行われることが多いのですが、山梨、静岡などでは、鬼歯(おにば)とも呼ばれる麦打ち棒を使いました。

静岡から資料館を訪れてくれた方が「子どもの頃これを使ったことがあるよ。」と教えてくれました。また、千葉から来た方は、「くるり棒」を使ったことがあり、回し方が難しくて、自分を打ってしまうことがあると話してくれました。このあたりだけが鬼歯を使うのはどうしてなのでしょう。

頭部の叩き面は四角柱や楕円の柱で、そこから柄が出ています。叩き面には粗い溝状の歯列をつけてあるので、鬼歯と呼びます。

連枷は平安時代の百科事典ともいうべき『和名類聚鈔』にも載っていて、中国やアジア各地、ヨーロッパでも使われています。麦打ち棒は、昭和20年頃まで使われたようです。

Img_9437jpg2 ぎざぎざの歯が並ぶ鬼歯

麦打ち台(むぎうちだい)

麦打ち棚・麦叩き台ともいいます。小麦の脱穀に適していて、麦を束ねて持ち、麦の穂先を竹の簀の子(すのこ)状の部分に数回叩きつけて脱粒します。小麦は茎が強く粒が落ちやすいという性質があるので、これで叩くことによって粒が簡単に取れます。また、ダイズの脱粒にも使われました。

Img_0001jpg2 大工さんが作った麦打ち台

大きさは、2人以上で作業できる3mくらいのものまであります。関東から九州まで広く使われましたが、足踏み脱穀機が普及すると使われなくなりました。展示中の麦打ち台は昭和30年頃まで使っていたそうです。

 

Jpg2 麦打ち台で小麦を脱穀する

唐箕(とうみ)

風力を利用して穀物を精選する農具で、中国から伝わったとされています。一般に普及するのは江戸時代の後半からで、日本各地に江戸時代の紀年銘が書かれた唐箕が伝わっています。地方によって形は少しずつ違いますが、山梨のものは、西日本で使われていたものに似ています。

山梨では唐箕のことを「千石」とも呼びますが、「千石通し」「万石通し」は篩(ふるい)のことで、穀類の精選に使われる点では同じですが、もともとは唐箕とは別の道具です。農具は、同じものを別の名前で呼んだり、別のものを同じ名前で呼んだりすることが多く見られます。

Img_9421jpg2 唐箕(現在も農機具店で販売中)

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