横沢ちゃん(横沢びな)の針治療
3月2日に新たに収蔵となった横沢びなの1点は、片腕がもげていたので、館長による集中治療が施されました。
横沢びなとは、桃の節句用に江戸末期から大正時代頃まで甲府で製造販売された人形の総称です。
江戸時代、甲府の横沢町に4軒の雛問屋があったため、その名がついています。
←人形の体の中に入れた詰め物と表地との間に塗った接着剤がぴったりとくっつくように針を刺して固定しています。
そして、そのうち2軒(「松米」と「井八」)が明治時代以降に横沢町から移転して、同じく甲府市内の移転先(柳町、三日町、八日町、下一条町)で、明治大正期に数多く製作したものが、現在、横沢びなと呼ばれているものの主流を占めています。(そのため、名に冠している横沢町が製作地ではない横沢びながほとんどであるという事実がちょっとややこしいのですけれどもね。いずれにしても甲府の雛問屋が甲府市内で製作し、山梨県内の人々が多く購入した在地雛です。)
治療した横沢びなを含むこの2点は、裃雛(かみしもびな)と言われるタイプの人形で、埼玉県岩槻で江戸時代終わり頃からつくられはじめた人形だと言われていますが、甲府の雛問屋でも裃雛は製作しており、6点の収蔵が当館にもあります。
←かつて山中共古が『甲斐の落葉・明治25年』に「横澤ヒナ」として裃雛の背後に花を配した「横澤花ショイ雛」の絵図をのせています。
まゆこの考察では、この裃雛タイプの人形は、横沢びなの中でも明治初めから中頃までの初期のものと考えています。
昭和期に書かれた文献にみる横沢びなの記述にこの裃雛タイプが見当たらないからです。
本年(平成29年)のひな人形展では当館の横沢びなコレクション30点余りをモチーフの違いや形態をもとに分類して展示することを試みました。
その結果、甲府の雛問屋で製作した雛(横沢びな)は、6タイプほどに分類できることが判りました(内裏雛と押絵は除く)。考察した成果はいづれしっかりとまとめて発表するつもりです。
修復された横沢ちゃんは今日、展示中の雛壇に仲間入りしました。もう針は刺さっていませんので、ご安心を!
まゆこ
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