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2016年10月25日 (火)

ミニ企画展「麦を食べる」(2)

日本人と麦

米の収穫が終わり、麦を植える季節がやってきました。今では米の収穫が終わった水田に麦を蒔くことは見られなくなってしまいましたが、人類最古の作物のひとつとされる麦は、西アジアの山岳地帯の草原が原産で、そこから中国黄河のあたりを経るはるかな旅をして、弥生時代の日本にやってきました。

日本では農業というと稲作がその大きな部分を占めてきましたが、麦も弥生時代には中国を経て伝来し、登呂遺跡(静岡市)や原の辻遺跡(長崎県壱岐市)からは炭化した小麦粒が発見されています。木簡に文字が記されるようになると、「麦」の字も荷札に記され、大麦・小麦が一般的な穀物として栽培されていたことがわかります。『日本書紀』には、欽明天皇12年(551)に百済の聖明王に麦の種を一千斛(さか18万リットル)送ったという記事があります。

Jpg2 小麦畑の麦秋

鎌倉時代に二毛作が普及すると、寒冷と乾燥を好む麦は米の裏作として適していたため栽培は拡大します。製粉する必要のある小麦に比べ大麦は粒のままで食べられるので、手間がかからず、小麦よりも熟すのが早くて、不足しがちな米の増量用としても適していたため、小麦より重視されました。大麦・小麦という呼び方も、粒や穂の大きさで呼び分けたわけではなく、主なものを「大」といい、そうでないものを「小」というところから来ています。そこからも当時は大麦が小麦と比べ大事にされていたことがわかります。

Img_9078jpg2 大麦の麦秋

農村では米と混ぜて炊いたご飯を主食としていましたが、都市で白米のご飯が普及していくと、麦飯はくさくてまずいと見なされるようになりました。そして白米のご飯へのあこがれが強くなると、脚気という国民病が流行るようになります。これはビタミン欠乏に依るものでしたが、ビタミンが発見される前には、伝染病だと思われていました。海軍ではその対策として麦ご飯を導入し、脚気の患者を減らしましたが、白米にこだわった陸軍では日露戦争で多くの病死者を出しました。

小麦を粉にしてパンを焼いて食べるという方法は、今から5千年前にエジプトで行われていました。粉にするには、石の上に小麦をのせて、別の棒状の石ですりつぶしました。その後回転する石臼が発明されます。日本にも飛鳥時代に碾(ひ)き臼が伝わったようですが、普及はしませんでした。ですから小麦粉などの粉を使った食品は長い間贅沢品とされたのです。

Jpg2_2 小麦を粉に挽く

庶民が粉食品を気軽に口にできるようになったのは、碾き臼が普及した江戸時代以降です。しかし、都市では小麦粉でうどんや天ぷら、まんじゅうなどを食べるようになりましたが、農村では粉にすることは手間がかかるので、粉食はハレの日の料理でした。

Img_2130jpg2 小麦の機械での刈り取り

明治になり、欧米からパンなどさまざまな小麦料理が入ってきたり、米の収量が増えたりするにつれ大麦の作付面積は減っていきました。第二次大戦後、パン主体の学校給食や食の欧米化が始まるとともに、アメリカから安い小麦粉が入ってきて、さらに小麦の存在が大きくなります。

しかし、自給率は低下し、平成26年の統計によると、小麦は14%、大麦は9%しか自給できていません。そのわけは、単位面積あたりの収穫量が米に比べて低いことや、日本の国土や気候条件などが稲作に適していること、麦には連作障害があること、政府からの補助金が低いことなどです。

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