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2016年10月30日 (日)

ゆずの蜂蜜漬け

Tomiko

 富子だけんど、寒くなったねぇ。今日は資料館の秋祭りで、大勢の人が来てくれたよ。ボランティアの人もうんと活躍してくれてありがたかったよう。

 資料館に来る途中のゆずの木が、黄色く色づいてきたね。ゆずは香りがいいじゃんね。風呂に入れるばっかじゃもったねえよ。

Dscn9092jpg2 ゆずの実が黄色くなった

 去年豊富のおじさんが、ゆずの蜂蜜漬けをくれたさね。薄く切って、瓶に詰めて、蜂蜜をたっぷり入れて作っただって。冷蔵庫に入れとくとカビもはえんで一冬中楽しめるだって。まねをして作ってみたさ。

Dscn9084jpg2 これはうちのゆず

Dscn9086jpg2 スライスする

 きれいに洗って、薄くスライスする。種がたいへん出てくるけんが、種は種で使い道があるから捨てちゃあだめだよ。

Dscn9087jpg2 瓶に入れて蜂蜜漬けにする

 瓶でもタッパーでも好きなもんに詰めて、上から蜂蜜をたっぷりかけるだよ。これが何にきくかへえ分かったけ?ゆずは柑橘類で、ビタミンがたっぷり入ってるし、蜂蜜はのどにいいからね。これを風邪ひきそうだなって思ったときに、熱いお湯でゆず湯にして飲むっちゅうわけ。

Dscn9088jpg2 お湯を入れてゆず湯に

 あったまるし、のどにも気持ちいいし、これさえあれば一年中風邪なんひかんよっておじさんたちが言ってたよ。すごいじゃんね。豊富の健康法だよ。瓶詰めを何個も作っとくだってよ。
 種は化粧水を作れば一石二鳥。作り方はまたこの次にでも書くじゃんね。それまで種は洗って乾かしといてくりょう。

2016年10月29日 (土)

ぐるぐるまわして麺作り

Photoこんにちは、まゆこです。

本日平成281029日と明日30日は、当館で「こども秋まつり」を開催しております。

今回は、「ぐるぐる回して麺作り」「古銭の拓本をとってしおりを作る」「竹製のぶんぶんゴマを作る」の3つの体験メニューをご用意してお待ちしています。

本日一日目の様子を少しご紹介しますね。

Pa294073

子どもたちに、とにかく大人気だったのは、「ぐるぐる回して麺作り体験」でした。

何回もやりたい人続出でした。

「君たち、明日もやってるからおいで!」

Dsc_1060

いつもガラスケースに入って展示されている江戸時代のお金(天保通宝、寛永通宝など)の拓本をとり、しおりに仕上げる体験はお母さんやお父さん達にも大人気でした。

 

明日も10時~15時まで「こども秋まつり」開催しております。

じつはハロウィーンよりも面白いかもしれない。

来てね!!

まゆこ

2016年10月28日 (金)

群馬でみた古墳と王の儀式

Photoこんにちは、まゆこです。

当館では企画展「王塚と甲斐の五世紀」がただいま好評開催中です。先日、知り合いの古墳専門家たちにくっついて、群馬県に古墳を観に行ってまいりました。

 

コースは、高崎市にある綿貫観音山古墳→群馬県立歴史博物館(平成28728日にリニューアル)→かみつけの里博物館周辺で行われた、かみつけの里2016古墳祭での再現劇「王の儀式」観覧→高崎市八幡町の観音塚古墳でした。

Dsc_0924 (綿貫)観音山古墳は6世紀後半数多くの副葬品が出土した前方後円墳 いつもは閉ざされている扉を管理者に開けていただき、石室内に入れてもらいました。玄室最深部の温度・湿度を確認し、「ここは稚蚕飼育するのにいいわねぇ~」なんて思ったのは、たぶん絶対まゆこだけ。そんなことを考えているのを隣りにいる古墳専門家のイっシー先輩に悟られぬよう、無理に神妙な顔して静かにしていたけど、このあと頭を入口の天井石にゴチンとぶつけたのはご愛嬌。今回は石室内を管理している方が詳しく説明してくださいました。感謝します。

Dsc_0938ここは群馬県立歴史博物館。群馬の埴輪は、でかいのぅ~!形象埴輪の種類が多くておもしろ~い。思わず駆け寄り、問いかけて、お話ししてみたくなる。ちなみにこの施設は今年の夏にリニューアルしたばかり。いろんな意味で興味深くて、リニューアル後2度も行ってしまった。

Dsc_0949 さて次は今回のメインイベントかみつけの里2016古墳祭での再現劇「王の儀式」観劇です。
実はまゆこ、昨年観に来て、あまりにも感動したので、今年もやってきた!

この再現劇は、5世紀後半から6世紀前半にかけてつくられた保渡田古墳群に隣接するかみつけの里博物館周辺で行われます。そのうち二子山古墳と八幡塚古墳を舞台にして壮大に繰り広げられる野外劇なんです。

←二子山古墳から王の儀式の演者登場。Dsc_0975

出土した埴輪をもとに考証した衣装をまとった演者たちが、最新の研究成果をもとによく練られたオリジナル脚本により上演します。

ストーリー発想のもととなった史実や埴輪も合間合間に紹介してくれるので、非常に勉強になります。

渡来人がキーとなって物語が展開するところも、観客にこの古墳が作られた5世紀後半の日本とアジアの交流の実際を、具体的に想像させることに成功しています。

Dsc_0995

豊富の王塚古墳も5世紀後半築なので、ほんとうに興味深いです。

八幡塚古墳へも移動して壮大に演じられる。

地道な研究成果を皆が集って楽しめるイベントに昇華できているなんて、スゴイ!尊敬します。まゆこも豊富の養蚕文化研究を積み重ねて、「養蚕神楽」みたいなものを創作できないかなぁと夢が広がるわけですよ。 Dsc_1005

 多彩な埴輪たち。こんなにたくさんの種類の埴輪が出れば、ここから様々な物語が創作できそう!群馬はすごいなぁ~。今年も心底感動してしまった。 山梨でも頑張らねば!

Dsc_1033最後に6世紀末の観音塚古墳をみて山梨に帰りました。

Dsc_1036_2観音塚古墳のそばにある民家の庭先に居た猫ちゃん。古代風の振り分け髪にみずらの模様がステキだわ。

まゆこ

2016年10月25日 (火)

ミニ企画展「麦を食べる」(2)

日本人と麦

米の収穫が終わり、麦を植える季節がやってきました。今では米の収穫が終わった水田に麦を蒔くことは見られなくなってしまいましたが、人類最古の作物のひとつとされる麦は、西アジアの山岳地帯の草原が原産で、そこから中国黄河のあたりを経るはるかな旅をして、弥生時代の日本にやってきました。

日本では農業というと稲作がその大きな部分を占めてきましたが、麦も弥生時代には中国を経て伝来し、登呂遺跡(静岡市)や原の辻遺跡(長崎県壱岐市)からは炭化した小麦粒が発見されています。木簡に文字が記されるようになると、「麦」の字も荷札に記され、大麦・小麦が一般的な穀物として栽培されていたことがわかります。『日本書紀』には、欽明天皇12年(551)に百済の聖明王に麦の種を一千斛(さか18万リットル)送ったという記事があります。

Jpg2 小麦畑の麦秋

鎌倉時代に二毛作が普及すると、寒冷と乾燥を好む麦は米の裏作として適していたため栽培は拡大します。製粉する必要のある小麦に比べ大麦は粒のままで食べられるので、手間がかからず、小麦よりも熟すのが早くて、不足しがちな米の増量用としても適していたため、小麦より重視されました。大麦・小麦という呼び方も、粒や穂の大きさで呼び分けたわけではなく、主なものを「大」といい、そうでないものを「小」というところから来ています。そこからも当時は大麦が小麦と比べ大事にされていたことがわかります。

Img_9078jpg2 大麦の麦秋

農村では米と混ぜて炊いたご飯を主食としていましたが、都市で白米のご飯が普及していくと、麦飯はくさくてまずいと見なされるようになりました。そして白米のご飯へのあこがれが強くなると、脚気という国民病が流行るようになります。これはビタミン欠乏に依るものでしたが、ビタミンが発見される前には、伝染病だと思われていました。海軍ではその対策として麦ご飯を導入し、脚気の患者を減らしましたが、白米にこだわった陸軍では日露戦争で多くの病死者を出しました。

小麦を粉にしてパンを焼いて食べるという方法は、今から5千年前にエジプトで行われていました。粉にするには、石の上に小麦をのせて、別の棒状の石ですりつぶしました。その後回転する石臼が発明されます。日本にも飛鳥時代に碾(ひ)き臼が伝わったようですが、普及はしませんでした。ですから小麦粉などの粉を使った食品は長い間贅沢品とされたのです。

Jpg2_2 小麦を粉に挽く

庶民が粉食品を気軽に口にできるようになったのは、碾き臼が普及した江戸時代以降です。しかし、都市では小麦粉でうどんや天ぷら、まんじゅうなどを食べるようになりましたが、農村では粉にすることは手間がかかるので、粉食はハレの日の料理でした。

Img_2130jpg2 小麦の機械での刈り取り

明治になり、欧米からパンなどさまざまな小麦料理が入ってきたり、米の収量が増えたりするにつれ大麦の作付面積は減っていきました。第二次大戦後、パン主体の学校給食や食の欧米化が始まるとともに、アメリカから安い小麦粉が入ってきて、さらに小麦の存在が大きくなります。

しかし、自給率は低下し、平成26年の統計によると、小麦は14%、大麦は9%しか自給できていません。そのわけは、単位面積あたりの収穫量が米に比べて低いことや、日本の国土や気候条件などが稲作に適していること、麦には連作障害があること、政府からの補助金が低いことなどです。

2016年10月23日 (日)

台が原宿で逢ったすごい道具

Tomiko

 富子だけんど、久しぶりじゃんね。元気だったけ? こっちは風邪もひいたり、運動会が二つもあったりしてささらほうさらだったよ。

 昨日は台が原宿の骨董市・クラフト市に行ってきたさ。3年続けて行ってるけんど、年々店が増えてきて、最初に行った時は神社はシートを広げて弁当を食える感じだっとうに、去年は神社にも店が並んで、今年は神社の裏の公園にも店が並んでたさ。骨董の方も七賢の工場の奥の方まで広がってたね。

Dscn9028jpg2 人出も多かった

 骨董に趣味はないけんが、資料館にある古いもんがどういうもんか勉強するいい機会だからね。

 金精軒の二階にも店が入ってて、登ってみたら、面白い機械があるから見せてもらったさ。ほうしたら、信州紬の糸を紡ぐ道具だって。

Dscn9023jpg2 電動紡糸器

 真綿をこの道具にかけるとあっという間に糸が紡げて糸巻きに巻き付いちもうさ。手紡ぎだと、つばをつけて手で撚りをかけて、「おぼけ」にためてっから巻くっていうように手間がかかるけんどこれじゃあ早いわ。

 実演してた人がいうにゃあこれは明治からある機械で、鋳物で作ったあるから、これが壊れちゃったらへえ直せんだって。電動だから明治じゃあないなと思ったから調べてみたら、戦後のものだったけんど、古いことは古いし、今作ってるもんじゃあないよね。

Dscn9024jpg3 月見草で染めた真綿が糸になる

 長野県の人が発明して、信州紡ぎの発展に貢献しただって。今でも80歳くらいのおばあちゃんが何人かこれを使って糸紡ぎの仕事をしてるだってよ。

 信州は全域が紬の産地で、自然が豊かだから草木染めで染めるだって。戦後の振興策が実って今は高級織物になってるっていう話だよ。紬はもともとは糸が取れんよたい繭(よくない繭)から作ってたにね。時代が変われば変わるもんだねって、その人も言ってたさ。山梨じゃあどうして紬が作られなかったずら。繭作りはうまかったにね。

 そのとき取ってた糸は、月見草で染めた糸で、薄紫のきれえな糸だったよ。あとは桜や茜で染めたスカーフがたくさん展示してあって、どれも軽くてあったかそうで、きれえだったね。

2016年10月22日 (土)

館長画伯、「蚕絵」に挑む

Photoこんにちは、まゆこです。

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当館では、現在、山梨・豊富の養蚕をお伝えする解説図録「とよとみのまゆ」全16ページを製作中です。

そこで、その図録の中で、蚕の一生を紹介するページで使う図を館長に描いてもらいました。

まゆこの頭の中の非常に抽象的なイメージをもとに、超忙しい中、すてきな蚕の絵を画いてくれた館長に感謝します。

215卵からうまれたばかりの毛蚕。

2195齢蚕。

「館長画伯おねが~い~♡。まゆこじゃ描けないから~(=^^=)」というしつこい懇願に負け、描きはじめたら、「必ずこの角度でこの器官をみたいので、こんなスタイルで、色味をつけて、リアルに、でもかわいくね」などと、多くの無理難題を押し付けられながらも、さすがの素早い対応で完成!

210この蚕の頭部の絵に、6個ある目、においを感じる触覚、味を感じる小あご、桑の葉をかみちぎる大あご、糸を吐く吐糸口の解説を付け加えて図にする予定。
 このほか、孵化中の蚕、繭の中で脱皮したあと蛹化する蚕、卵を産む成虫などの絵もあります。

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とくに、子どもたちによく聞かれる「蚕の歯はどうなっているの?」を説明するための大あごのようす、糸を吐く専用の口である吐糸口の様子などがよくわかるように、蚕の頭部を表現してもらいました。

まゆこ、満足!非常にうれしいです。

これらの館長画伯作成の蚕絵は蚕の一生という図に組み込んで、年度内に発行予定の「とよとみのまゆ」に収録します。

頒布方法の詳細など、決定しましたらお伝えします。

まゆこ

2016年10月20日 (木)

蚕影大神のお姿②

Photoこんにちは、まゆこです。昨日に引き続き、南アルプス市上宮地の風新居地区公会堂で保管されてきた蚕影大神さまをご紹介します。

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こちらは「絹本着色蚕影大神画像(けんぽんちゃくしょくこかげだいじんがぞう)です。

木像と同じく、左手に繭、右手に桑の木を持っていらっしゃいますが、こちらは座っておられます。 

←「絹本着色蚕影大神画像」

 

蚕影神・蚕影山:茨城県つくば市蚕影神社を本社とする。江戸時代以降蚕種屋が広く伝え、信仰を集めた。

 

所在地:風新居公会堂内 (南アルプス市上宮地)

 

付記:右手に桑の木、左手に繭を持つ蚕影大神画像。

 

   衣服の胸のあたりに『阿伱嚕神王(あじろしんのう)』と記されている。『阿伱嚕神王』とは、十二神将の一人、如意輪観音を示す。如意輪観音には立像は無く、全て坐像か半跏像である。  

 この蚕影大神は、救世菩薩とも呼ばれる如意輪観音(阿伱嚕神王)に桑枝と繭を持たせ、養蚕信仰の対象としたものと思われる。

こちらの画像は、平成2865日に前回ブログ「蚕影大神のお姿①」でご紹介した蚕影大神木像を当館にお貸しいただく作業をしている最中に発見されたものです。

木像を保管している風新居公会堂を管理している上宮地地区の方(住吉さん)が、「倉庫内にこんなものがあったのですが・・・」と見せてくださいました。

掛け軸は表木と軸木が無くなった状態でしたが、何とか開いてみると、画像は無事でした。

そして、その時まさに梱包作業をしていた蚕影大神木像とお姿がそっくりだったのです。製作年は不明なので推測ですが、もしかしたら木像のモデルとなった絵かもしれません。

 

P6103037 お顔にいたずら書きの跡が少しありますが、冠は木像とそっくりの形です。

P6103046胸飾りには、木像と同じ青いビーズがたくさん描かれている。

P6103044衣服の胸のあたりに「阿伱嚕神王」と記されている。

Dsc_0841繭を持つ手の爪は独特の形。人間ではない存在を思わせる。

Dsc_0843爪の伸びた足指。お蚕さんの足先に似ているかも?!
P6103053桑の枝

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 ←落款

人間とは明らかに異なる手足の爪の形など、細部を見れば見るほどに、夢幻的な魅力を感じます。

風新居公会堂には、この他に、「蚕影大神木像」、「蚕影尊天の版木」、「蚕の文字の入った鬼瓦」が保管され、決められた日に公開されています。

今日ご紹介した掛け軸は、簡易な修復を当館で施して、展示できるようにしましたので、いづれ、木像とともに公会堂内で地域の方々に公開していただければ幸いです。

まゆこ

 

 

2016年10月19日 (水)

蚕影大神のお姿①

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こんにちは、まゆこです。

Photo_2 ここ豊富には、茨城県つくば市の蚕影山神社を本社とする蚕影山信仰を示す石碑が8基あります。

 「蚕影山(こかげさん)」とか「蚕影大神(こかげだいじん)」などと文字が石に刻まれているのみですが、蚕が健やかに成長するようにと、かつての人々は折々に「なむ、おかいこがみさん」と手を合わせて祈りました。

 Dsc_0758しかし、同じ山梨県内でも、南アルプス市上宮地にある風新居公会堂内には、地区の人々が100年近くも大切に祀ってきた蚕影大神木像と絹本着色蚕影大神画像があります。

山梨県内で蚕影大神を具象化したものは大変珍しく、まゆこはこれ以外に観たことはありません。

そこで、先月まで開催していた企画展のためにお借りした際、撮影いたしましたので、今回ここでご紹介させていただきます。

 蚕影大神という文字だけでなく、実際のお姿があると、より明確な信仰対象としての力が生まれますね。

Dsc_0775 まゆこも「これが養蚕の神様かぁ」とその優美なお姿に素直にたいへん感動しました。画像をいっぱい載せたいので、きょうはまず、蚕影大神木像をご覧ください。

蚕影神・蚕影山:茨城県つくば市蚕影神社を本社とする。江戸時代以降蚕種屋が広く伝え、信仰を集めた。

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←「蚕影大神木像(こかげだいじんもくぞう)」

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(

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所在地:風新居公会堂内 (南アルプス市上宮地)

 

建立:大正6年3月吉日完成し、風新居公会堂の床の間に勧請される。

 

 施主人:中巨摩郡榊村 横内甚右衛門(横内酒造)

 大正六年三月吉日  豊村十五所 井原定吉作 

 

 

材質:木造

 

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付記:

高さ7㎝・奥行16㎝・横幅26㎝の台座の上に、身丈70㎝・奥行13㎝・最大幅21㎝の像が乗る。

頭にビーズ細工の垂れ下がる冠をのせ、胸飾りにも同様のビーズ細工が下がる。

右手に桑の木、左手に繭の入った皿を持つ。

 

背面記名

施主人 中巨摩郡榊村 横内甚右衛門

大正六年三月吉日

豊村十五所 井原定吉作

 

外面は黒塗り、内面は金色の厨子に入る。厨子は高さ89㎝・奥行28㎝・横幅39

 

風新居養蚕組合が管理所有し、毎年1月20日総会において、「蚕影尊天 守護」の札を配り供物をささげ、豊作祈願を行っていました。

現在では、一月半ばの小正月行事(どんど焼き)の日に厨子の扉を開けるとのこと。

 

Dsc_0684

南アルプス市風新居地区では平成

10年まで養蚕農家があったそうですが、往時は、笠原製糸、協栄製糸(長野)へ繭を出荷していたとのことです。

地域で先頭に立ってこの蚕影大神木像を守ってこられた住吉さんが教えてくださいました。

造られてから100年近く、養蚕をしなくなっても20年近く地区の住民の皆さんに大切に守られ、伝えられてきたこの蚕影大神像は、今後、養蚕の盛んであった地域の歴史を物語る尊い宝としてますます輝きを増していくことでしょう。

ほんとうに素晴らしいことですね。

←展示の様子を観に来てくださった、住吉さん。

いまから35年前の記事にあったのを偶然に見つけたのがご縁でしたが、当館企画展で展示させていただきました。そして、蚕影大神像を改めてゆっくりご覧になろうと、南アルプス市から上宮地地区の方々がわざわざ中央市豊富まで何回も来てくださったことはとてもうれしいことでした。

 南アルプス市上宮地地区の皆様には、大切な蚕影大神様を当館に3カ月以上もお貸しいただき、感謝申し上げます。

風新居公会堂にお戻りになった蚕影大神さまの次のお目見えは、来年1月半ばのどんど焼きの日です。立派な厨子の扉が開けられるそうです。

 Dsc_0842_3

←次回ブログは、平成

28年6月5日当館への蚕影大神木像貸し出し作業中に風新居地区公会堂内で見つかった「絹本着色蚕影大神画像」についてご紹介したいと思います。

まゆこ

2016年10月18日 (火)

ミニ企画展「麦を食べる」(1)

 米の収穫が終わり、麦を植え付ける季節がやってきました。

 人類最古の作物のひとつとされる麦は、西アジアの山岳地帯の草原が原産で、そこからはるかな旅をして弥生時代の日本にやってきました。

Dscn9015jpg2 「麦を食べる」のちらし

 水田の少ない山梨では畑で麦を作り、麦飯のしたり、ほうとうなどの麺類やまんじゅうにしました。麦を栽培し、脱穀をする道具にもさまざまに工夫がみられます。

Dscn9006jpg2 麦作りの道具

 中央市でも古くから米と麦の二毛作を行ったり、畑で麦を作った様子が知られています。健康食品として見直されてきた麦について、その歴史を見直して見たいと思います。

Dscn9005jpg2 明治時代の農業日誌も展示

2016年10月15日 (土)

陸軍少将早川新太郎の墓所

P9233831 中尾神社

先般、陸軍少将早川新太郎の大礼服やその装飾具を寄贈されましたが、早川新太郎の生年月日や、没年月日、あるいは墓所などについては不明のままでした。そこで、新太郎の妻の実家である、田村家(笛吹市一宮町中尾・中尾神社宮司)の田村弘正氏を訪問し、親族の早川新太郎家のことを尋ねました。

Pa124006 宝樹院

Pa123992 早川家墓所

その結果、田村家と同じ寺院、一宮町中尾の臨済宗宝樹院に墓所があることがわかりました。早川家の墓誌の表には新太郎の名前は書かれていませんでしたが、裏側を見ると更に江戸時代からの祖先に次いで、新太郎の戒名と没年月日が記されていました。

Pa123986 墓誌裏側の左から2人目

戒名は「奉公院殿憲道義法居士」で、昭和2年10月20日没でした。残念ながら生年月日は不明です。陸軍士官学校へ明治22年に入学しているので、入学年齢が15歳くらいとすると明治7年頃の生まれかもしれません。没年齢は55歳くらいだったでしょうか?いづれにしても来年は没後90年ということになります。

今年の10月20日、間もなくですが、没後89年目になります。墓所と命日の確認できたのは何かの縁でしょうか?

奥さまは「志づ子」さんですが、墓誌に「俗名 静」と書かれている方だとすれば、戒名は「静真院秋月慈香大師」で、大正10年9月21日が命日です。

Pa123984 中尾神社宮司・田村家の墓所

早川新太郎家の墓は、一時、品川区の嶺雲禅寺ありましたが、平成22年に移転改葬され、現在の宝樹院に移されました。この墓所には田村イ与造の本家の墓所もあり、夫婦ともども落ち着いたことでしょう。

2016年10月14日 (金)

第3回企画展「王塚と甲斐の五世紀」が始まっています

Pa144016

10月1日(土)より「王塚と甲斐の五世紀」展が開催されています。さっそく見学に来られた方々もいました。10月1日に行われた、山梨県考古学協会の地域大会「大塚古墳から探る市川三郷町の古墳時代」では、資料集の裏表紙に宣伝を載せていただいた関係で、当館の展示企画に関心をお持ちいただいた方もたくさんいたようです。

2日の日には、東京国立博物館の職員で古墳の専門家のF氏がおいでになり、いろいろなご意見もいただきました。
特に、王塚の墳頂にある昭和5年建立の碑は、時の帝室博物館が王塚の出土品を買い上げたお金で建てられた可能性があるそうです。全国各地で同じ様な碑が建てられているそうです。王塚は当時の豊富村役場が関係していたために、記念碑を建立したのでしょう。なお、甲斐銚子塚古墳は昭和3年に発掘され、出土品が王塚と同じように帝室博物館に収められたのに、碑が残されていないのはなぜでしょうか?よそのことは今更ですね。Pa144008

さて、今回の展示は、題名の通り「豊富の王塚」が中心です。王塚は昭和3年の冬から4年の春にかけて、地域の人々により3日間ほど発掘され、たくさんの鉄製品(甲冑・刀・剣・鉄鏃・馬具など)が発見されました。不思議なことに、装身具や鏡などはほとんど発見されず、しかも別ルートで「冑」2個が帝室博物館に収められています。

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今回は出土品を東京国立博物館からお借りすることはできませんでしたが、県立考古博物館のご厚意で、衝角付冑レプリカ1点と人物埴輪・馬型埴輪の模型をお借りしました。それは、王塚から馬型埴輪の頭が出たという記録があり、また、出土地不明ながら、かつて豊富村内から人物埴輪の腕が発見されているからです。

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また、隣の三珠大塚出土の挂甲小札(ヨロイの小さい鉄板)62枚と埴輪破片や、か県内の5世紀の古墳の情報を展示し、豊富村出土の5世紀の須恵器や土師器も展示しています。

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是非ご覧ください。

2016年10月 9日 (日)

キジの死

今日の朝、館の玄関を開けて、外を見ると、傘立ての前にメスのキジが横たわっていました。目を閉じてピクリともしません。恐る恐る脇の下に指を差し込むと、まだ温かいではありませんか。ガラスに衝突して、気絶しているのか、しばらく様子を見ていましたが、閉じられた目は開く様子もありません。せめてこの軒下で、雨にぬれずに最期を迎えた事は、不幸中の幸いでしょうか?

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しばらくすると、隣の宿泊客の老婆が、しきりに館の入り口を覗き込んで、何かを探しているようです。声をかけると、先ほど車の下からキジが飛び立ち、ここのガラスの当たって倒れたので、どうなったか心配で来たと話してくれました。

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暖かいわけですね。しばらく段ボールの中に入れて様子を見ることにしましたが、やはり動く気配はありません。ガラスに当たって、首の骨がおれてしまったのでしょう。箱に入れるときは、まだキジは暖かく、柔らかい状態でした。猫に襲われてもいけないので、しばらく保管しておくことにしました。

 亡きがらの キジ温かき 秋の雨   

2016年10月 6日 (木)

山梨県指定天然記念物「一瀬桑」に会いに。

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こんにちは、まゆこです。

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 先日、雨の中でしたが、手入れされた桑畑を見たくなって、富士川町最勝寺付近と市川三郷町へ出かけてきました。

 

ここ数年、山梨県内では、富士川町最勝寺にある養蚕家が繭産出について、質的、量的にも一番です。ですから、桑畑も立派に手入れされているのです。

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 しかし、薬害をさけるためでしょう、桑畑は最勝寺でも一番標高の高いところにひろがっており、他の栽培作物と競合しない地域が選ばれているようです。

葉が落ちる冬の間はこれとはまた違った光景が見られるはずです。また来たいと思います。

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さて、次は、市川三郷町川浦に山梨が誇る優良桑品種「一ノ瀬」の親株を観に。

以前、身延線市川本町駅から歩いて来たことがあったまゆこですが(実際歩いて行く時は芦川駅からの方が近いです)、今回は車でしたので、ちょっと迷ってから着きました。

 

Dsc_0737竹垣に囲まれた三株の「一ノ瀬」の木がみえてきました。

Dsc_0739そのうちの一株は、蚕糸業を奨励した貞明皇后が昭和23年に一瀬家を御視察された記念樹です。「貞明皇后一瀬桑御視察記念樹」

Dsc_0736一瀬桑」の説明版( 農林水産省より正式に登録された品種名は「一ノ瀬」である) 

Dsc_0734「一瀬桑親株 白木(青木のこと)」

Dsc_0733 こちらは「一瀬桑親株 赤木」とある。
 

一瀬桑は明治時代に、鼡返(ネズミガエシ)の桑苗から2種の変異種を一瀬益吉が見出して繁殖させた品種です。葉質が良く、収穫量も多いうえに病害虫にも強かったため、大正,昭和と全国に広まり、最も多く栽培された優秀な品種です、我が豊富地区は大正時代の初めにいち早くこの一瀬桑を導入したことで、高品質の繭生産において成果を出していったとされています。

Dsc_0745近くにある歌舞伎公園の一角に「一瀬桑由来碑」があります。(この碑はもともと甲府市の舞鶴城公園にあった)

 まゆこはいつも、白木(青木)と赤木の外面的特徴が実物を見てもよくわからないのですが・・・。現在、栽培品種としてある「一ノ瀬」は青木と赤木のミックス?なのかもよくわかりません。勉強しなければならないことが次から次へと出てきて尽きません。

ごめんなさい、調べてみてわかったらまたお知らせします。

まゆこ

2016年10月 2日 (日)

「与一門」の紹介

中央市歴史文化ボランティアの会員Mさんから、甲府市下曽根町の笛南中学校の少し南に、「与一門」と呼ばれる古い門があるので、見に来てほしいと言われていました。最近のこと、ようやく訪問すると、さっそくそのお宅に連れて行っていただきました。

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この門が「与一門」と呼ばれているそうです。門の下の方に刀傷があると言われて、見てみました。たしかに傷が何本も横に残り、柱も角が欠けています。

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説明していただいたご主人によれば、この門は、明治時代に豊富の浅利から移転したのではないか、とのことです。さらにお話を伺うと、昭和20年の滝戸川が氾濫した時に、この門のおかげで、母屋が被害を免れたということでした。

なるほど、この門の傷は、その災害の時に石や流木によって傷がついたものかもしれませんね。刀傷ではもう少し鋭い傷が残りそうですし、真横に擦れた傷は、災害の可能性が高そうです。

それにしても、「与一門」とはよい名がつけられたものです。浅利与一の里から移転された門だからそんな名前がついたのでしょうか?是非大事にしていただきたいものです。

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