大正・昭和の蚕種通信販売(蚕種注文葉書と郵送用紙筒)
きょうは、明治から昭和初期頃までの養蚕家が、蚕種(蚕の卵)をどのように手に入れていたかを物語る資料をご案内します。
当館には、大正9年に豊富地区の養蚕家に蚕種屋から届いた注文用の往復はがき3通を収蔵しています。
集落ごとに一括して注文するようになる昭和初期までは、家ごとに蚕種屋から注文用のはがきが届いていたようなのです。
3通とも大鳥居水上の水上豊次郎さん宛に夏秋蚕期用の蚕種販売のために出されたものです。 そのうち1通は返信用の注文書に記入したものの、切り取られていないことから、結局注文しなかったことが判ります。
蚕種注文用往復ハガキ①裏:大正9年に、蚕種屋である中巨摩郡二川村の笛水館芹澤保次郎からとどいたが、返信しなかったもの。
蚕種注文用往復ハガキ①表:水上豊次郎さんは注文書に記入したものの、切り取らずに返信しなかった。
蚕種注文用往復ハガキ②左:はがきを送った蚕種屋は、東八代郡石和町の甲信館末木幸太郎。
蚕種注文用往復ハガキ③:蚕種業者は東八代郡富士見村の富士見館小林徳一。
また以上の3通それぞれの文面を読むと、この年の春蚕期は大凍霜害があったこと、販売蚕種の種類には様々あり、繭の色も白の他に黄色のものがあったりと、大正時代までは各戸自由に選択・注文して育てていたことも知ることができます。
以上3通の蚕種注文はがきは、現在開催中の企画展「最後の養蚕家と豊富」で展示中です。
さてもう一つ、蚕種屋は注文を受けると、どんなふうに蚕種を発送したか?という問題ですが、それはこちらの容器、「蚕種郵送用紙筒」を見てください。
ありがたいことに、この資料はつい最近、寄贈していただいたものです。
はがき注文により蚕種屋から発送される際、蚕種を付着させた紙を丸めて紙筒の中に収納し、郵便で発送したもようです。
この紙筒は蚕種発送用に上田市紺屋町の業者が特別に作っていたもののようですね。
紙筒(小)に記されていた差出人の住所長野県更級郡力石村(現千曲市)は調べてみると、かつて蚕種の産地でした。
蚕種郵送用紙筒(小):外径75㎜、長さ248㎜の厚紙製。届け先の宛名「東筑摩郡日向村上井堀 飯森美澄 殿行」差出人「長野縣更級郡力石村七十一番地 蠶種製造業 山崎善太郎」その他表書き「蠶種二枚在中」「昭和三年七月一日発送」「長野縣上紺屋町 森川製造」、蓋表書き「蠶」「水火高温ニ御注意・・・」「(農産物種子)」
蚕種郵送用紙筒(大):外径95㎜、長さ250㎜の厚紙製。届け先宛名「東筑摩郡日向村上井堀 飯森美澄 殿行」差出人不明、その他表書き「(農産物種子)」「蠶種四枚」「長野縣上田市紺屋町 中村式蠶種輸送器製造 中村紙器製造所」、蓋表書き「至 水火高温ニ御注意ヲ乞フ 急」
この2つの蚕種郵送用紙筒に記載されている内容は興味深いものばかりで、これらの情報をもとに、蚕種屋さんや注文した養蚕家の足跡を追って、現在の長野県千曲市や上田市に出かけたくなります。
今のところ、残念ながら山梨県内を経由した蚕種郵送用紙筒を当館では収蔵できていませんが、富士山の風穴で保存していた蚕種は、隣町の中道地区にある右左口局を発送起点として大量に郵送されたという文献があるので、今後の資料発掘に望みをかけたいと思います。
ところで、現在でも、繁殖用の蚕種は第四種郵便「植物種子等郵便物」として発送できるそうですよ。
これも現代に残る、日本養蚕史の歴史の一つですね。
まゆこ
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