蚕の種がやってくる(昭和30年頃)
前回、昭和初期までの蚕種の通販について書いたので、今回も蚕種に関連する昭和30年の資料をご紹介したいと思います。
豊富村では、昭和初期から集落単位で製糸会社と特約契約を結んで繭の出荷をすることがはじまりましたが、昭和24年1月17日に集落単位に19の養蚕組合が設立され、蚕種の共同購入や災害等に備えた共済基金の積み立てなどを行うようになりました。 当館には、その東八代郡豊富村養蚕農業協同組合の昭和30年の写真アルバムが収蔵されています。きょうは、それらの写真から読み取れる当時の蚕種の分配について、ご紹介したいと思います。 豊富村の組合長会議で蚕の飼育開始日(掃き立て日)が決まると、その日に合わせて蚕種業者から「掃き立て紙」を挟んだ「ばら種容器」が豊富村組合本部に届きます。 ←業者から届けられた蚕種が組合建物の軒下に並べられている。2万粒の種が「ばら種容器」1枚に入る。 ←ばら種容器:当時は2万粒(10g)の種が入っており、輸送用の容器として使用された。大正6年頃から使われ始めた。 ←注文した蚕種を引取りに来た養蚕家たち。蚕種業者が「皆様、追加注文はありますかね』と声をかけているとの記述あり。 ←アルバムによると、昭和30年当時に豊富村が取引していた蚕種業者は、山梨蚕種、南信社大井出張所、大竜社山梨出張所、信濃蚕業豊富出張所の4社です。 集落ごとに特約契約をしている製糸会社から指定された蚕種を使用する場合も多く、来館された南信社関係者から聞いた話ですが、当時は「太平×長安」という大粒の繭ができる品種をよく納入したそうです。 ←蚕種が大きな風呂敷に包まれ、背負われている。豊富の各家で大量に掃き立てていたことが判ります。 ←我が家に届いた蚕種を囲んで。今日からはじまる蚕の飼育に、届いた蚕種を囲んだ家族の表情からは、わくわく感が伝わります。 ←以上の写真はすべてこの昭和30年につくられた貴重な養蚕組合のアルバムに納められたものです。 ただいま開催中の「最後の養蚕家と豊富」という企画展準備の際に、近辺に資料収集のお声掛けをしていたところ、古民家を解体することになった水上家より発見され、素晴らしいタイミングで寄贈いただきました。 このアルバムの中の養蚕風景は50点以上ありますが、その後の養蚕技術の進歩に伴い、昭和50年代以降とかなり違っています。 昭和30年当時の養蚕の実態や技術を知ることのできる貴重な資料をいただきました。 企画展が終了した後も、当館に収蔵されている蚕具と合わせて養蚕技術の進歩をわかりやすく紹介できるよう、展示に生かしていきたいと考えています。 もちろん、こちらのブログでも順次ご紹介していきますからね♪ まゆこ
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