資料館に金貨がやってきた
富子だけんど、今日はぬくといじゃんね。このまんまぬくとくなればいいけんど、明日は雨だっていうし、月曜日ころには又寒くなるらしいね。
せんころ、よく資料館にきてくれるおじさんから電話があって、「資料館に金貨をやりたいだけんど。中銀の資料館にも1個しか飾ってねえ金貨だよ。」っていうから、「えっ、そりゃあすごいじゃん。もしかして甲州金?」と思ったけど、2・3日してっから、持ってきてくれたのは、3枚もの江戸時代の金貨だったさ。すごいじゃんね。ただで資料館にくれるだから。
展示室の金貨
さっそく館長が飾る台を作って展示室に飾ったさ。写真の真ん中でピカピカしてるのが金貨だよ。
二分金貨
一番左のでっかいのが「明治二分判金」っていって、明治の元年と2年に鋳造されたもんだね。これ2枚で小判1枚の価値があるだって。
江戸時代にこういう金貨を作っていとうは、金座の後藤家で、徳川家康から小判や金貨を作る権利をもらった江戸時代の造幣局っちゅうわけさ。金貨に「光次」って書いてあるのは、「後藤庄三郎光次」っていう名前を名乗っていいっていうこんと、「五三の桐」の紋を使っていいっていうこんを許されたからだって。後藤家の屋敷は今の日銀本店のあるとこにあっただけんど、明治2年に造幣局の仕事も屋敷も明治政府に取り上げられちゃっただってよ。
二朱金貨
これは真ん中ので、「天保二朱判金」っていって、これ8枚で小判1枚になるだって。天保から安政の1832年~1858年まで作られただって。下の方に「二朱」って書いてあって、上の方に「五三の桐」が描いてあるね。
軽い二朱金貨
一番右のは「万延二朱判金」っていって、これも8枚で小判1枚になるだけんど、持ってみたらやたら軽いさね。ほうしたら同じ二朱でもこっちの方が金が少ないだよね。銀が混ぜてあるだけんど、その割合が多いっちゅうこんさ。ほんだから全体の重さも「天保二朱」のほうは1.62グラムなのに、「万延二朱」のほうは0.75グラムしかないだよね。カネがなくなってくるとどんどん材料のコストを下げて、金銀銅を節約するのは幕府の常套手段だからね。「万延二朱判金」は万延から明治2年の1860年~1869年に作られただって。幕府も力がなくなっちゃったときだから、節約するのもわかるよね。
こういう金貨や銀貨を財布に入れているのは、今でいえば1万円札が1~2枚入っているのと同じ感じだって。江戸時代の中くらいの階層の人かな。
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