ミニ企画展 鉄瓶 ~実用の美~ (3)
南部四家
南部鉄器の「南部」は盛岡藩主「南部氏」に由来します。盛岡で最も有名な鋳造品、上ノ橋の擬宝珠は初代藩主の時代である慶長年間(1600年頃)に作られました。これは、南部氏が甲州を本拠とした時代から仕えてきた有坂氏の鋳造したものと伝えられています。
霰文様の南部鉄瓶
ここで「南部氏」と甲州の関係を少し説明します(平成南部藩のホームページより抄出)。南部氏の遠い祖先は、新羅三郎義光で、兄は源氏の嫡流八幡太郎義家です。義光の次男義清はその子清光とともに甲斐に移り、勢力を伸ばして甲斐源氏の発展の基礎を作りました。
清光の嫡男光長は逸見氏を名乗り、次男は武田信義と称して甲斐守護となります。そして三男遠光は加賀美郷や小笠原郷を領し、加賀美次郎遠光と名乗りました。遠光は源頼朝の平家追討の合戦に参加し、鎌倉幕府の中で確固とした地位を築きました。南部氏の初代の光行はこの遠光の三男で富士川右岸の南部領が所領であったため、南部氏を名乗るようになりました。
南部光行が奥州藤原氏攻めで手柄を立て、その功績で奥州糠部郡を源頼朝から拝領したと伝えられています。それが事実であるかどうかは明らかではありませんが、南北朝の頃には確かに八戸や三戸に南部氏の子孫が領し、戦国時代を経て江戸時代に盛岡藩の藩主になったのです。鎌倉時代から明治維新まで同じ所領に居続けることができたのは南部氏の他にはごく少数なのだそうです。
八重桜文様の南部鉄瓶
盛岡の鋳物の歴史は、有坂家と鈴木家、藤田家、小泉家の歴史と重なるといわれます。現在その歴史の全容を明らかにすることは難しいようですが、日用品から大砲まで、藩の鋳物の御用はこの四家が中心となって担っていました。四家の歴史をひもといてみましょう。
拓本をとると「南部盛岡」と読める
有坂家
最初に上げられるのは有坂氏です。初代は京都の人で、7代目の時甲州に下り、明徳年間(1390年頃)に南部氏に仕え、陸奥へも随行したと伝えられています。甲斐在国中からの鋳物職人でした。奥州には、良質の砂鉄・川砂・粘土・漆など鋳物作りに必要なものがそろっていますから、存分に力を発揮できたのではないでしょうか。その技量が認められて鋳物師の棟梁になって梵鐘などの大きなものを作っている人もいます。明治・大正時代には盛んに生産を行っていたと思われます。
鈴木家
次に登場するのは、鈴木氏です。京都で金工技術を取得し、甲州から下って寛永年間(1630年頃)に藩に召し抱えられた、鈴木家綱を祖とします。梵鐘や灯籠、幕末には大砲鋳造の命も受けています。江戸時代後期からは鉄瓶も多く製作しました。現在でも鈴木主善堂と鈴木盛久工房が繰業を続けています。
小泉家
そこで登場する小泉氏は、京都出身の小泉清行を祖とします。藩内で茶の湯釜を製作するために万治2年(1659年)南部藩に召し抱えられました。3代目のとき使い勝手の良い湯沸かしをと考え創作したのが鉄瓶です。小泉氏の釜作りによって藩内の茶道文化が発展し、さらには茶の湯釜が贈答品として用いられるようになり「南部」の名を印象づけました。現在は鋳物メーカー「岩鋳」の工場内に「御釜屋」という工房を持ち、親子で操業中です。
八重桜文様の拡大
藤田家
その後、鈴木家と同じく甲州の出身での藤田家がお抱えとなります。鍋類の鋳造を主とした町の鋳物職人でしたが、品質が良かったため、藩のお抱え鋳物師になります。宝永6年(1709年)のことです。梵鐘や灯籠を作ると同時に鉄砲師も拝命しています。幕末の頃からは豪華な鉄瓶を製作し「鍋善もの」と呼ばれ評判を取りました。
切り株の形をした鉄瓶 南部町誌や富沢町誌・身延町誌などを見てみると、南部氏が奥州へ移りその地に根を下ろす様子は詳しく書かれていますが、甲州出身の鋳物師たちが活躍して南部鉄器の隆盛をもたらしたことにはまったくふれられていません。逆に南部鉄器のことを書いた本には、甲州出身の鋳物師たちが南部鉄器の歴史を築いていったことがはっきり書かれています。山梨の人間として、先祖が遠い奥州の地で活躍したことをもっと知ってもよいのではないかと思いました。
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