甲州小梅(1)
富子だけんど、口を開けば「暑いね」ちゅう言葉しか出てこんじゃんね。こういう日の弁当にゃあ梅干しは欠かせんから、今年は久しぶりに梅を漬けてみとうさ。
山梨じゃあ梅干しっていえば、小梅のこんだよね。小学校の頃の弁当にゃあみんなちっくい梅干しんへえってとう(入っていた)もんさ。
5月終わり頃の甲州小梅
梅は中国が原産て言われてるし、紀元前の昔っから梅を薬にしてただって。北魏っていう国の『斉民要術』っていう本にゃあ、梅の栽培法とか、梅干しとか、梅酢の作り方が載ってるらしいさ。日本にゃあ奈良時代頃に、漢方薬っちゅうこんで梅の燻製が伝わっただって。
洗って漬ける準備をした
平安時代の『医心方』っていう医学の本にも梅干しの作り方載っていて、鎌倉時代になるっちゅうと、禅宗のお坊さんは梅干しを茶菓子にしてただって。鎌倉時代のお侍さんにゃあ、クラゲ・アワビ・梅干しがおごっそうだったっちゅうからおもしれえじゃんね。
戦国時代にゃあ梅干丸っちゅうもんを作って、戦の兵糧にしとうだって。中身は梅肉と米粉と氷砂糖の粉末だってよ。うまいもんずらか。食ってみてえもんじゃんね。
江戸時代になるっちゅうと庶民も梅干しを食うようになって、梅干しに熱湯をついで飲んで「福茶」っていうようにもなっただって。
塩分少なめで漬けてみた
江戸時代の山梨県の地誌の『甲斐国志』っちゅう本にゃあ、梅のこんが産物で出てくるけんが、梅の花を観賞するだけで、あんまし梅干しとかは作らなかったらしいよ。なぜかっちゅうと梅干しをつくるにゃあ塩がいるけんど、山梨じゃあ塩があんまし手に入らなかったからだって。塩が手にへえらん(入らない)ちゅうのが本当かどうかは、知らんよ。富士川舟運で静岡から運ばれてきて、「鰍沢」は塩の別名だったくれえだからね。鰍沢からは馬に乗せて長野県へ運んどうだから。
山梨で梅干しん盛んに作られるようになるのは、中央線が開通した明治36年以降だって。太平洋戦争の時にゃあ、軍の調達に応えて栽培量が増えただって。戦国時代とおんなしだねえ。
長くなっちゃったから、なんで甲州小梅っていうかは、次に書くじゃんね。
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