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2015年6月10日 (水)

企画展ー中央市のアジア太平洋戦争ー戦後70年

今年は終戦70年となります。どのような展示になるか、その内容の一部をお知らせします。

P6101072

第2回企画展「中央市のアジア太平洋戦争」

平成27年6月20日()~9月27日()

ごあいさつ

 本年は、1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎えた『アジア太平洋戦争』・『大東亜戦争』敗戦から70年目となります。日本はこの敗戦から70年間も戦争に関わらず、戦後復興や経済発展を成し遂げ、豊かで平和な国づくりが行われてきました。

 この間、世界各地では朝鮮戦争やベトナム戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争をはじめ、大小の紛争が各地で行われ、今でも戦闘が行われています。

一方、日本が戦争に直接かかわらず、この70年を過ごしてきた事は、国民が「平和」を空気のように、当たり前のものとしてきたのも事実です。

 しかし、最近では秘密保護法の制定、日米安保条約改定に伴う自衛隊の海外派遣や集団的自衛権、国際平和支援法など、戦争と直接・間接に関わる内閣決議や法律の制定、さらに憲法改正などが叫ばれ、世界各地の戦争へ関与する条件が徐々に整いつつある動きもあります。

 私たちの国日本は、今後何処に向かうのか、世界平和にどのような貢献ができるか。今、戦後70年をむかえて、国民・市民一人一人が、恒久的な平和を真剣に考える時ではないでしょうか。

 今回の展示が、過去の戦争を振り返り、今後の社会の進み方や方向性を考えるための一助にしていただけたら幸いです。

                     中央市豊富郷土資料館 館長 

P6101056 玉旗飛行場から出土した92式重機関銃

玉幡飛行場と立川飛行機製作所

 現在の県立農林高校と日立甲府製作所敷地にまたがる場所に、昭和9年、民間の会社が飛行場を造り、昭和11年に山梨飛行場として逓信省から認可を受け、学校も山梨航空技術学校として、整備士養成学校ができました。

 昭和15年には岐阜陸軍飛行学校分校がここに設置され、陸軍はここを甲府飛行場としました。練習機は約30機が配備され、格納庫やその他の施設が建てられ、訓練生120名,教官20名が配置されていました。敷地面積は東西1000m、南北980m、総面積60万㎡でした。

 訓練は赤とんぼと呼ばれた複葉機で、盆地内を訓練飛行しましたが、戦局が厳しくなった昭和20年には、首都防衛の基地として臨戦態勢がとられ、新型機や燃料の試験飛行や実験が行われました。

 田富地区の小字「立川」「下

茱萸

(

ぐみ

)

は、昭和17年に立川飛行機製作所が置かれた場所で、玉幡飛行場との位置関係から、現在の釜無川と常永川の合流点内側のトラックターミナル北側にある流通団地からリバーサイドタウン北側の大型店舗を含む地域です。ここには、大きな鋸歯屋根の工場が建てられ、北側には完成した-飛行機を飛行場に運ぶための大開口部がありました。工場では「隼」(一式戦闘機・キ―43)1機、又は8機が生産されたと伝えられます。敗戦後昭和30年に立飛企業()と社名変更した会社は、やがて甲府製作所を閉鎖し、建物も解体されました。

満州国と満蒙開拓団

 昭和6(1931)918日に勃発した満州事変の翌年31日に、中国国民政府からの独立を宣言し、『満州国』が建国されましたが、現実は日本の関東軍による傀儡政権でした。しかし、中国や国際世論はこれを認めず、昭和8(1933)に日本は、満州国から日本軍の全面撤退を求める議決をした国際連盟から脱退し、世界からの孤立を深めていきました。

 一方国内の農村不況は深刻化し、国は耕地を求める小作農に土地を与えることや、農村内部の失業者などの過剰人口を、満州国に送り出して開拓させる政策をとりました。これが『満蒙開拓団』です。

 満州への移民は昭和7年から始まり、同20年までに全国から24万人が満州へ渡ったと言われています。

 また、山梨県からは昭和86月より、全部で2万人の開拓農民や青少年義勇軍が移民しました。なお、昭和12年頃には国により「百万戸移住計画」が策定され、昭和13年度からは県内8ヶ村の分村が指定され、この年「豊富村分村計画」が作成されました。ちなみに、昭和14年度は10ヶ村、15年度は7ヶ村が指定されました。このうち南アルプス市にあった豊村の分村は、終戦後の816日に満州で141名が集団自決し、満蒙開拓団の大きな悲報として特筆されています。

 旧豊富村の分村計画は、昭和13年当時の632戸を515戸に減らすことで、残留農家の耕地面積を7反歩から1町歩へと増やすことでした。この時の農家送出し第1期計画では、第1次5戸、第2次10戸、第3次15戸、合計30戸とされました。

 豊富村の人々が移民した開拓団には、三江省(黒竜江省)樺川県七虎力(千振―チブリ)への第2次千振開拓団、東安省(黒竜江省)密山県、虎林線黒台駅付近への第5次黒台開拓団、三江省(黒竜江省)鶴立県東海村への第5次東海開拓団には豊富村から7名が参加していました。また、安東省安東県(遼寧省丹東市)五竜村、安奉千五竜背駅付近への五竜煙草開拓団にも豊富から7名の移住がありました。

 また、『田富町誌』によれば、旧忍村の石原三之一家8名は牡丹江省帽児山開拓にわたり、帰国できたのは2名のみでした。また、旧忍村の塩島貞光氏は武装移民として渡満し、千振開拓団に入植しましたが、終戦時にソ連軍に抑留されシベリアで死亡しました。なお、田富から青少年義勇隊に志願した三井豊・望月信夫・石原敏夫・遠藤文治・岩本徳儀・土屋寿・広川義光・石川豊春・青木友行・田中馨・田中政美氏などの名前が残されています。

 更に、旧田富村8名、旧玉穂村13名の満蒙開拓団に参加した人々の名前も、甲府護国神社の慰霊碑に刻まれています。

 満蒙開拓青少年義勇軍()へは、昭和13年から募集があり、16歳から19歳までの尋常小学校を卒業したものが対象とされました。応募者は茨城県内原町で3カ月の基礎訓練を受けたのち、満州へ渡り軍事訓練や農事訓練に従事しましたが、厳しい寒さと粗末な食事、劣悪な生活環境のために暴動や喧嘩が多く、ホームシックや自殺者もいたと言われています。この義勇軍()には全国から89万名の参加者があり、山梨県からは1,746名が送出されています。この様子は、『戦禍の実証』(平成17年・田富町寿マスター協議会・老臣クラブ連合会発行)の田中政美氏の文章に詳しく書かれています。

 移民の農家には助成金50円と、現地での広大な農地の確保が宣伝されましたが、実際に開拓団員に配分された農地は、現地の中国人などから土地を強制的に安価で買い上げたもので、現地の人々からは強い反感をかいました。そのため治安も悪く、襲撃を受けることもあり、また、満州は日本と比べて極寒の地で、日本の営農方法は通用せず、政府のバラ色の宣伝とは全く異なったものでした。敗戦の直前にソ連軍が侵攻し、あわせて中国兵や人民らの略奪・暴行などにより、多くの人々が帰国する前に亡くなり、ソ連に抑留されてシベリアに送られ、又は、小さな子供を現地の人に預けて帰国するなど、各種の苦しみに襲われました。

 甲府市の護国神社の境内には、満蒙開拓団で亡くなった人々の『満蒙同胞殉難慰霊碑』『満蒙開拓青年義勇隊之碑』があり、市町村ごとにそれらの人々の名前が銅板に刻まれています。

 参考資料 『田富町誌』・『豊富村誌』・『山梨満州開拓団小史』(2006 小林春雄)

 

 このほか、甲府連隊や国民生活・甲府空襲・中央市内の戦没者慰霊碑のどを紹介しています。展示資料は戦争関係や、戦時中の生活関係実物100点以上、写真・文字パネル60枚ほどを展示します。特に中央市の立川飛行機製造所・玉幡飛行場の航空写真(昭和23年)や満州開拓団についても、説明しています。

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