フォト
無料ブログはココログ

にほんブログ村

« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »

2015年3月31日 (火)

大鳥居・山ノ神の桜情報2

P3310469

山ノ神の入り口の桜はようやく2~3分咲となりました。山の上まではまだまだでしょうが、1週間もあれば、駆け上ってしまうかもしれませんね。

P3310473

シルクの里公園は満開状態です。

P3310461

近くの法乗寺のしだれ桜も満開ですので、ぜひよってください。

なお、宇山平の王塚古墳の桜も満開に近いのではないでしょうか?

P3310447

近くの伊勢塚古墳の桜も見事です。

P3310456
ぜひ豊富地区にお出かけください。

2015年3月29日 (日)

ジョウビタキの来訪

富子さんが玄関を出た途端、頭上から小鳥が落ちてきました。胸が橙色で、頭が灰色で、黒い羽には白いアクセントがあります。手の中にすっぽり入る大きさです。首を少し動かし、口ももぞもぞしているので、生きているのですが、羽ばたこうとはしません。富子さんの言うには、ガラスにでもあたって、脳震とうをおこしたのでは?とのこと。鳥が青空を写した大きなガラスにあたることはよくあります。

P3280401

ぐったりしていたこの鳥に、水道の水を割り箸から垂らして飲ませたところ、首を持ち上げ、口を小刻みに動かして、まさに飲み込むようなしぐさをしたので、更に2~3滴含ませると、羽を動かしたではありませんか。様子を見るため、表の台の上に置いたら、たちまち羽ばたいて白樫の木に向かい、力強く飛んでいってしましました。よく見ると、小枝にしっかりと止まっています。やれやれ無事でよかった。

P3280402

さて、この鳥の名前は?さっそくインターネットで調べると、『ジョウビタキ』という小鳥のオスでした。日本で越冬する渡り鳥で、チベットや中国東北部、沿海州、バイカル湖付近で繁殖し、非繁殖期は日本・中国南部・インドシナ半島北部への渡りをおこなう鳥で、まれに日本でも繁殖するといいます。オスは写真のように胸の橙色が鮮やかですが、メスは全体が茶色の感じで地味なようです。
とにかく元気になってよかったですね。今度は遊びに来てほしいものです。

2015年3月28日 (土)

シルクの里公園とさくら情報

P3280398 ふわふわドーム

P3280389 スペースネットも子供がいっぱい

甲府盆地の桜は、ソメイヨシノが3分から4分先へと駆け足で花開いています。

P3280393 2分咲きの桜

こちらの中央市のシルクの里公園は、少し遅れていて、今は1~2分先と言ったところでしょうか?公園の桜を写してきました。皆さんはどのように判断しますか?

P3280396

春休みの公園は、子供たちでいっぱいです。ふわふわドームやスペースネットで、
青空に向かって飛び跳ねる子供たちの歓声が、公園に響いています。

P3280395 コブシ

公園のモクレンやコブシの花も咲き、富士桜でしょうか?小さな桜の花が満開になってい

P3280391 ふじざくら?

ました。公園の外は、白梅やスモモの花も満開になりつつあります。
山の神の千本桜は、まだつぼみですが、登山道入り口の桜は、つぼみがずいぶん膨らんできました。

2015年3月27日 (金)

山ノ神の桜とたいら山

26日、朝は冷気に包まれていた甲府盆地ですが、
日中は太陽のおかげで温かくなりました。そこで
意を決して、大鳥居の山ノ神からたいら山まで、
山の様子を見に行くことにしました。
シルクの里公園の桜は咲き始めましたが、
山ノ神登山道の桜はまだまだです。

Photo 最盛期の千本桜(中央市観光課)

昭和40年から43年にかけて植えられた桜も、
今年で50年になりますが、ソメイヨシノの樹令は
およそ50年とも言われ、樹勢の衰えは進んでいるようです。
そこで、地元では若木の補植していますが、
見事な花を咲かせるには、まだ10年以上は要するでしょう。
山ノ神の千本桜が、天に龍が登るごとく、
葛篭折れにつながる景色を、今年も眺められるか、
とても心配しながら、登山道を辿りました。
今年の見ごろはいつになるでしょうか?

P3260347 展望台

十七丁目の展望台からの眺めはとても素晴らしく、
甲府盆地を取り巻く山々が見事です。
ここの桜のつぼみは、まだ固いようですね。
山ノ神神社は4月17日の祭りを静かに待っています。
一礼して、たいら山に向かいます。
山ノ神神社の正面の道を南側に向かうと、
すぐにコンクリート舗装の林道になります。
これを左に登っていくと、甲府盆地や南アルプス、

P3260330 林道からの展望

八ヶ岳、奥秩父の山並みが一望となります。
ここで昼食をとりながら、写真を撮りました。
林道に沿ってたいら山に向かうと、道は鞍部へと下り、
たいら山のふもとで、ぷつんと終わっています。

P3260344 正面がたいら山

これからは、赤白のテープや、ひも、小さい「たいら山」の看板を
目印に、山頂を目指して、道のない山林を直登していきます。
途中、わずかな踏み跡もありますが、これを横切り登ります。
カラマツ林の中に、赤いテープがちらちら見える足元に、
三等三角点の石柱があり、そこには細い杭に「たいら山」の木板が
括りつけられています。

P3260335 三角点は見つけにくい林の中

この三角点は、たいら山の最高点より少し北側にあり、
雑木も茂っているので、夏では発見に苦労すると思います。
ここから、関原峠への道も、踏み跡はありません。
木につけられたテープや小さな「木板」が目印です。
私は、今日は「たいら山」で引き返しますが、
「関原峠」から関原集落まで下り、車を山ノ神の駐車場で回収して、
シルクの里公園の「ふれんどりぃ温泉」で汗を流すコースは、
4時間ほどで、秋~春の山行としてとてもよいでしょう。
ただし、道案内は現在のところ不十分ですので、
地図の携行と熟練者と同行して歩く必要があります。
古い石仏に会える、関原峠からの下りでは、
危険なところもありますので慎重に下ってください。
コースタイムは次の通りです。

山ノ神駐車場ー1時間ー17丁目展望台ー8分ー山ノ神神社
ー30分ーたいら山ー30分ー関原峠ー1時間(下り)-関原集落
ー45分ー山ノ神駐車場

2015年3月25日 (水)

ミニ企画展 「鏡」 (1)

有力な豪族の宝物・祭事の器(弥生時代・古墳時代)

弥生時代から古墳時代の遺跡で多くの銅鏡が発掘されています。出土する鏡は大陸からの輸入品である舶載鏡と、それをまねして作った国産の仿製鏡があります。弥生時代に甕棺に副葬された銅鏡は宝物として珍重されたり、不老長寿の祈りを込めた文が鋳出されたり、その鏡を持った人の子孫も繁栄が約束されたりするというものでした。日本海を越えてはるばる中国からもたらされる銅鏡は、だれでも所有できるわけではありません。ごく限られた有力者や、司祭者に限られていました。

古墳時代も墓に銅鏡を副葬するという風習は続きます。中には30枚以上の鏡を副葬した古墳もあります。中国でも鏡を副葬しましたが、日本と違って1~2枚でした。『魏志倭人伝』には、「卑弥呼の好きなものを使者に持たせた」と書かれていて、銅鏡百枚も下賜されています。日本人はかなりの鏡好きだったようです。

鏡と言えば『古事記』の天岩戸の話が有名ですが、『日本書紀』では大和武尊が船の舳先に鏡をつけて進軍したことや、神宮皇后が船に榊の木を立てそれに鏡や玉をつるして進軍したことが書かれており、鏡は軍の先頭を行く霊力のあるものとも考えられたのでしょう。

Dscn69712 「乳文鏡」(浅利諏訪神社蔵)

今回のミニ企画展に展示されている唯一の古墳時代の鏡は「乳文鏡」です。

江戸時代後期の紀行文『並山日記』(黒川春村著)に浅利諏訪神社に秘蔵されていた鏡などのことが色彩画をともなって書かれています。山梨県史編纂にあたって『並山日記』に書かれた鏡などの調査をした結果、諏訪神社の宮司も知らなかったこれらの宝物の存在が確認されました。

『並山日記』には4枚の鏡があったとされていますが、現在は1枚のみが保存されています。直径7.1cmの「乳文鏡」で、文様は二重の櫛の歯のような文様の内側に4つの乳を均等に配し、乳からはわらび手文が伸びています。(乳というのは、いぼのような突起をいいます。わらび手というのは、山菜のわらびが芽吹いたときのような形の文様です。ただ、鋳造がよくないので、乳の一つは見えません。)

5世紀末から6世紀のもので、神社の周辺分布する古墳から開墾によって出土したものが住民によって神社に奉納されたものだろうと思われます。

神社の神宝ですので普段は神社の奥深くにしまわれています。今回特別に貸していただいたのでこの機会にご覧ください。

Dscn69742 「乳文鏡」の鏡面

古墳時代の鏡を知ることのできるもう一つの展示品は、「三珠大塚古墳六鈴鏡の模造品」です。これは山梨県立考古博物館で作製したものです。できたての鏡はこんな感じなのだということがわかっていただけるかと思います。

Dscn69692 「六鈴鏡模造品」

鈴鏡は鏡の縁に鈴をつけたもので、日本でしか発見されないことから、日本で独自に成立したものと考えられています。付けられている鈴の数は鏡によって異なり、4~10個です。古墳時代後期を中心に製作されたもので、関東地方からの出土例が多く知られています。巫女埴輪の腰に下げられていることから、祭儀のなかで巫女が体をゆすって踊ることにより鳴らしたのだろうと考えられています。

大塚古墳の「六鈴鏡」は1996年の発掘により前方部から出土しました。鏡の直径は11.4cm、鈴の直径は1.9cmです。地金は白銅と呼ばれる、銅と錫の合金で、青銅より錫の割合が高いものをいいます。櫛の歯の文様と二重の波線の文様に囲まれた内側には6つの乳を配していて、それぞれの乳からはわらび手が伸びています。内側の文様は諏訪神社の鏡と似ているといえるでしょう。やはり5世紀末から6世紀の鏡です。

出土した「六鈴鏡」の本物は、市川三郷町の資料館で見ることができます。

 

2015年3月24日 (火)

歴史文化講座「戦後70年」のご案内

本日は、平成27年度第1回歴史文化講座開催のお知らせです。

 

70084

演題:「戦後70年 -いま戦争と平和を考えるー

 

講師:浅川 保 先生(山梨平和ミュージアム理事長)

 

日時:平成27418(土)午後2時~3時半

 

場所:中央市豊富郷土資料館 シアタールーム

 

       申込み不要・聴講者は入館料無料となります。

 

共催:中央市文化協会郷土研究部

 

問合せ:中央市豊富郷土資料館 ℡0552693399

 

 

『いま世界各地で戦争が行われています。日本は70年前にアジア太平洋戦争の敗戦後、戦争の渦中になったことはありませんが、今後、永く平和を維持していく方策はあるのでしょうか?』

 

今年度6月半ばから予定している第2回企画展では、「戦争」をテーマに取り上げます。各地の郷土資料館と同じく、当館にも戦争に関する資料は多数収蔵しています。

 戦後70年のこの年だからこそ、また新たに戦争の時代を見つめ直し、私たちのこれから生きていく道はどのようなものであるべきかを探っていく企画にしたいと考えています。これに先立って、浅川先生にお話をしていただくことになりました。

 

 

皆様のご来場、お待ちしております。

まゆこ

2015年3月22日 (日)

試作失敗!改良藁蔟の作り方がわからない

Photoこんにちは、まゆこです。

 昨日は、告知通りの朝10時~韮崎市民俗資料館の「にらみん」お嬢さんと藁蔟作りをはじめたまゆこですが・・・・・改良藁蔟試作は失敗。 

Dsc_1630改良藁蔟折器に藁をかけてみる。しかし、作りはじめの藁の掛け方、両端の始末の仕方がさっぱりわからないし、想像もできなかった。

  もちろん、皇后さまが改良藁蔟をつくっていらっしゃる場面が収録されたDVD「皇后さまのご養蚕」や養蚕をなさっている方の発信しているブログを見たりして予習はしましたよ。 そして、当館所蔵の改良藁蔟折器の中でも、一番シンプルで分かり易そうなものを持ち出して、藁をセットして、いろいろやってみたんです。

 でもうまくできないので、正面玄関脇にいたまゆこは「あーでもない、こーでもない」とつぶやきどころか大声になっていたらしく、「何をやってるんですか?」と来館者の皆さんが近づいて来てくださるのをいいことに、しばらく一緒に藁のくくり方を悩んでもらったり、「作り方を知ってそうな人周りにいませんか?」と尋ねてみたりして、頑張ったんです。 でもできなかった。

Dsc_1624 当館資料「改良藁蔟」こんなのつくりたかったんですけど・・・。

 言いわけではないけれど、山梨県はボール紙でできた回転蔟発祥の地です。

 そのため、昭和4年~県内で販売されていた回転蔟は昭和15年には県下半数の養蚕家で使用されていたとされ、戦後の昭和30年以降に回転蔟を使い始めた群馬県や長野県などの他の養蚕県とちがい、藁製の蔟を使用しなくなってから長く時間経過しています。

 それでも、ただ藁を蛇腹に折るだけの使い捨ての折藁蔟(島田蔟)の方は、蚕が予定数以上に巧く育ってしまい回転蔟用の区画蔟が足りなくなった時に急きょ製作して使用するということはあったようですから、作り方もわかるんです。

Dsc_1625「にらみん」お嬢さんの折藁蔟(島田蔟)は製作快調!

 一方、改良藁蔟の作り方は現在80才代の地元のお年寄りにきいてもあまり記憶にないようです。しかし、当館には改良藁蔟作りの道具や昭和初期に改良藁蔟作りの講習会?が行われたと思われる古写真が残されており、これを作る道具の使い方は知っておく必要があるだろうとまゆこは考えています。 059205昭和初期と思われる改良藁蔟作り講習会?の記念写真。

Dsc_1629 器用な館長も改良藁蔟作りに参戦したが、ダメだった。

Dsc_1634 最後にアップする必要はないと思われますが、悔しいので、今日一日の改良藁蔟試作成果を載せておきます。

 どう見ても、ただの藁屑!まぁ最初はこんなもんですよね!

 群馬県や長野県など他県の人に教えてもらわないと、わからないような気がしてきました。

もっと取材と勉強を深めてから、再度また挑戦したいと思います。

まゆこ

2015年3月20日 (金)

明日は藁蔟(わらまぶし)を作ります!

Photoこんにちは、まゆこです。

 

 最近毎朝、日々変化する出勤途中の野山の彩りに、春の訪れを教えてもらっています。

 

暖かくなってきましたね。ここシルクの里の桜のつぼみも順調に膨らんできていて、十日ほど後の風景が本当に楽しみな時期になってきました。

 さて唐突ですがごめんなさい。

明日平成27321日(土)10時~、当館正面玄関脇で、藁蔟を作ります! 玄関前が藁屑だらけになっていても許してくださいね。蔟(まぶし・もず)とは、お蚕さんに繭を作らせる場所となる養蚕道具です。

Dsc_2010 折藁蔟(島田蔟)

Dsc_1620 改良藁蔟

 とってもかわいらしい韮崎市民俗資料館の「にらみん」お嬢さんと一緒にやりま~す!!

「にらみん」さんは当館の折藁蔟製造器(おりわらまぶしせいぞうき)を使って韮崎市民俗資料館展示資料用の折藁蔟(島田蔟)をつくる予定なんです。

Dsc_1277 折藁蔟製造器

 まゆこはその横で、改良藁蔟(かいりょうわらまぶし)の試作をするつもりでっす♪ 

Dsc_1619 写真中央のいちばんシンプルな改良藁蔟折器で試作する予定です。 しか~し、はっきり言って、現状のまゆこは改良藁蔟折器の使い方がさっぱりわかっていないのだ!(なにを威張ってゆ-ことか?)

 実際はお手本となる改良藁蔟資料を見つめながら、「あ~でもない、こ~でもないっ!」とおばさん特有の独り言を連発しながら悩んでいる姿が目撃されることでしょう。

 そこでお願いです!! 改良藁蔟の作り方をご存知の方、もしくはまゆこと一緒に悩んで改良藁蔟作りの試行錯誤につきあってくださる心根の優しい方がいらっしゃいましたら、是非いらしてください。

Dsc_1622 藁束と藁束の間を鋸歯状につなぐことができれば・・・・・、まゆこにも作れるでしょうか?

たぶん、明日のまゆこは悩んでおわりのような気がしますが、何事もやってみないと解らないのでダメもとで改良藁蔟作りに挑戦してみます。

ただ、「にらみん」さんの折藁蔟づくりは、そんじょそこらでは見かけることのない、なかなか面白い実演になると思うので、必見ですよ!

 ではみなさん、ご都合が合いましたら、明日は朝から藁だらけになった「にらみん」お嬢さんと「まゆこ」おばちゃんが正面玄関でお迎えいたしておりますので、中央市豊富郷土資料館に怖がらないで是非おいでください。

まゆこ

 

2015年3月17日 (火)

春が来た

Tomiko

 富子だけんど、ご無沙汰してぇてわり(悪)かったじゃん。今日はばかにぬくといじゃんね。資料館の裏山のウグイスん最近よく鳴いてぇて、豊富にも春ん来とうって思わされるさ。これっから草も生えるし、やせったくなるよ。

 今まで寒冷紗をかけて養生しといとうアブラナとノースポールとキンセンカを外に出して、ビオラのビニールも外したさ。アブラナはどんどん背が伸びて、つぼみもふくらんで今ちっとで咲きそうだよ。咲いたら花を見るだけじゃなくて、ちゃんと種も採るからね。

Dscn69902 油菜のつぼみ(10月9日種まき)

 ノースポールとキンセンカとビオラも、へえ霜も降らんらって安心してるようじゃんね。いまにプランターいっぱいにでかくなると思うよ。楽しみじゃんね。

Dscn69922 プランターの花たち

 小麦も伸びてきたね。去年みとように雪にふんづけられるこんもなかったから、のびのびしてるさ。このめえ(前)「麦はあこいで作れ」っていうのを書いたけんど、「米は土で作れ。麦はあこいで作れ。」っちゅうのがほんと(本当)だったさ。意味は、「米をたくさんとりたかったら土地を広く作れ。麦をたくさんとりたかったら手をかけろ」っちゅうこんだってさ。「あこい」っちゅうはめえ(前)にも書いたけんど、「かかと」のこんで、しょっちゅう畑に見に行けっちゅうこんだね。「畑の菜は足音を聞いて育つ」っちゅう言葉もあるらしいよ。

Dscn69912 3月17日の小麦(11月6日種まき)

Dscn68892 水晶玉のような水滴

 上の写真は2月26日の写真だけんど、麦の葉っぱの先の方に水滴がついてえて、きらきらしててすごいきれえだったさ。どういうでこういう水滴がつくだか調べてもよくわからんだけんど、雨とか霜とかじゃなくて、麦の茎とか葉っぱの水分が出てきているらしいだよね。こういう水滴がつくわけを知ってる人んいたら、教えてもれえてえよう。

2015年3月14日 (土)

ミニ企画展「鏡」(1)

 3月14日から5月22日の予定で、ミニ企画展「鏡 ~宝物から日用品へ~」を行います。今日はその初日です。

Dscn69842 展示の様子

 今回は古墳時代の鏡としては中央市にはたった1点しかない諏訪神社の鏡をお借りして展示しました。ふだんは諏訪神社の神宝として秘蔵されていますので、めったに見ることはできません。ぜひこの機会にご覧ください。レプリカではなく本物です。

Dscn69712 古墳時代の鏡

 同じく古墳時代の鏡としては、山梨県立考古博物館で作成した三珠大塚古墳の六鈴鏡の模造品があります。これは古墳時代の人たちが見ていた鏡の輝きを今に見せてくれています。

Dscn69802 展示ケースの様子

 その他江戸時代の柄鏡や明治・大正時代の鏡台など、も展示しています。個々の展示品については、また紹介したいと思いますが、ぜひ資料館に足を運んでいただき、ご覧になっていただきたいと思います。

080 「鏡」展ちらし

2015年3月12日 (木)

蚕が温まり、寒さをしのぐ道具

Photoこんにちは、まゆこです。

 平成27127日から開催しておりましたミニ企画展『温まる、しのぐ』は本日312日(木)をもって終了となります。

 このミニ企画展をご覧いただいた方には、日本人が古くから冬は部屋全体を暖める暖房ではなく、厚着と、囲炉裏や炬燵、火鉢などから暖をとることで、冬の寒さをしのいできたという歴史を理解していただけたと思います。

 ところで、今日は『温まる、しのぐ』展の番外編として、人間ではなく、蚕が温まり、寒さをしのぐための道具を紹介したいと思います。

Dsc_1616 これらの道具はすべて「養蚕火鉢」と呼ばれる蚕があたたまるための道具です。 

ここ山梨県中央市では、春蚕の飼育は5月初旬から中旬にかけてはじまりますが、蚕は寒さに弱いため、気温の低い夜は一晩中火鉢の中で炭を燃やして蚕室を暖めました。(蚕の成長には、22℃~28℃が適温です)


 蚕室内を暖房・保温する「温暖飼育」は明治中頃からさかんに行われてきた飼育法です。

Dsc_1132← 胴部に繭の図柄が4つあり、その一つには中に大當(おおあたり)の文字が。

 炭を燃料とする蓋付きの火鉢で、藁灰や籾殻をかけて火力を調整したそうです。

 取っ手もついており持ち運びやすく、蚕室内での配置や数の増減も容易なので温度管理にはとても便利でした。

 

 

Dsc_1608

 

しかし一方で、一酸化炭素中毒になる人も続出して、「地獄温度ともいわれた」と豊富村誌に記されています。

大正時代半ば頃からは、練炭が燃料として多く使われた。Dsc_1610 欧風建築を彷彿させる鋳物製のおしゃれな養蚕火鉢。蓋の取っ手が繭の形になっている。

 次は、「養蚕紙張幕(ようさんしちょうまく)」という名の、蚕が寒さをしのぐ紙製の道具を紹介します。

Dsc_0039
←紙張幕を拡げてみたところ。室内をぐるっと囲い巡らすので、かなりの大きさに。紙を貼り合わせて作られています。

 

 

「紙張幕」とは、蚕室内に蚊帳のように天井から床まで張り巡らせて使う、大きな紙でつくられた幕のことです。

蚕の保温や防寒のために用います。主に掃き立てたばかりの1齢から2齢の蚕(稚蚕)を寒さから守る目的で使用されました。

 山梨県の紙の産地である市川大門町(現市川三郷町)と中富町西島(現身延町)でも生産され、全国各地の養蚕家に販売されていました。

 

Dsc_0013

 

この紙張幕の商標には、養蚕と関係の深い馬の図柄も入っている。

 

 以上、当館2階の養蚕のあゆみと技術革新を展示した資料の中から、今回は蚕が温まり寒さをしのぐ道具をご紹介しました。

人間のためには、部屋全体を暖めるという思想は昭和40年代になるくらいまであまりなかったのに・・・。

 

 これらの道具の存在を目の当たりにすると、大事なお蚕さんのためには、紙張幕で室内をテントのように囲った上に、数個の専用火鉢で室温を高くして、保温するということが明治中期ころから盛んに行われてきたことが分かります。

 

 しかも、蚕専用暖房具といっても、鋳物製のものなどは実用的というよりは、かなりデザイン性にも凝っていてお洒落ですよね♪ 

 

 

 先人たちがどれほどお蚕様たちのために特別に心を尽くしていたか、よくわかります。

 最後に、次回のミニ企画展のテーマは「鏡」で、14日(土)からはじまりますからね!

まゆこ

 

2015年3月10日 (火)

ミニ企画展「温まる・しのぐ」(5)

 火鉢

 

数人がかりで動かす大名火鉢から手あぶりと呼ばれる小型のものまでさまざまな大きさ形があります。陶製、木製、金属製のものが大部分です。

 

火鉢は奈良時代に登場します。煙が出ないことから、上流の公家や武家の家で使用されていました。江戸時代になると庶民にも普及します。江戸では囲炉裏の使用は禁止されていたので、火鉢に頼らざるをえませんでした。火鉢は暖房用であるとともに炊事にも使われました。

 Dscn67612 お座敷に並んだ火鉢たち

Dscn6762 時代劇によく出る長火鉢

上の写真の長火鉢は、よく時代劇などに出てきますが、その家の長でないとこの長火鉢の前にす座ることはできませんでした。囲炉裏にも座る場所があったように火鉢にも上の区別があったのですね。

Dscn67642 帳場に置かれた手あぶり

『枕草子』に「火など急ぎおこして 炭もて渡るも いとつきづきし。昼になりて ゆるくゆるびもてゆけば 炭櫃 火桶の火も 白き灰がちになりぬるはわろし」と書いてある炭櫃・火桶というのは火鉢のことです。

Dscn67232 宣徳火鉢の脚

 上の写真は宣徳火鉢と言われる火鉢の脚です。宣徳火鉢というのは、中国の明の宣徳年間に作られた銅の火鉢を言い、それを模して作った火鉢もそのように呼ばれています。いかにも中国風ですね。

 

明治時代になると炭焼きの技術が普及したため火鉢はますます使われるようになりました。大正時代に石炭を粉末にして蓮根状の穴をあけた円筒形の練炭が、群馬県の養蚕農家に普及し始め、これを使った練炭火鉢も使われました。炭より火力が強いことから、昭和四十年以前にはどこの家庭でも使用されていました。

しかし昭和三〇年代に石油ストーブが登場したことで火鉢は姿を消しました。

 

 

 
 

火鉢で餅を焼く

 

ストーブ

国内でストーブを初めて製作したのは、安政三年(一八五六)のことです。函館でイギリス船のストーブを参考に作られました。ズンドウストーブとか、ダルマストーブとか、ルンペンストーブとよばれました。明治時代は薪を、大正末期ころからは石炭を燃料としました。このようなストーブはおおく官庁を中心に使用されました。

 

 

 
 

反射式ストーブ

 

石油ストーブは大正九年(一九二〇)に輸入されました。日本製の石油ストーブの始まりは昭和三〇年です。昭和三五年には芯式石油ストーブが発売されブームとなりました。耐震消火装置もつけられました。昭和五三年にはファンヒーターも誕生します。やっと日本でも部屋を暖められるようになったといえるでしょう。

Dscn67112 官庁でよく使われただるまストーブ

 

 

 

 

 

 

 

 
 

火鉢で餅を焼く

 
 

 

 

2015年3月 8日 (日)

4月3日のひなまつりにはお重をもって出かけよう!

Photoこんにちは、まゆこです。

甲州のひな祭りは現在でも旧暦にならって、四月三日に行う伝統が残っています。昭和40年代初めごろまでの甲府盆地周辺の農村では、これから田植えや春蚕の準備に忙しくなる時期を前に、43日のひなまつりに、ごちそうを重箱に詰めて地域の小高い丘や塚、河原に出かけ、盆地中が桜や桃花に彩られる春を謳歌するという行事がひろく行われてきました。

Dsc_1566_2

 現在ではほとんど行われていない行事のようなのですが、館長の本棚にある『山梨県民俗地図~山梨県民俗文化財分布調査報告書~(昭和60330日)』を開いてみると、

その分布図には、現在の中央市・市川三郷町・昭和町・甲斐市・韮崎市・甲府市南部・笛吹市・山梨市・甲州市・大月市・都留市に、ひな祭りの野遊び風習を示すドットが記されています。

43日のひなまつりにお重を持ってピクニック?」だなんて、とっても楽しそうな風習だなぁと思っていたまゆこ。ちょうど同じ頃、「広報ちゅうおう」を作成している中央市広聴広報課職員kさんも、この地域独特の桃の節句を題材に特集記事を組みたいとのことでしたので、協力して取材をすることになりました。

 そこで、子供のころから現中央市内に住んでいる人で、ひなまつりの野遊び経験をしたことのある方々にお話を伺うとともに、小正月のお飾り作りの取材でもお世話になった水上のおばあちゃん、その娘さんに、昔桃の節句に山に持っていったというお重の中身を再現してもらうこともできました。

今回は、中央市の「広報ちゅうおう」担当職員とともに取材した、山梨で昭和40年代初め頃まで行われていたという四月三日のひな祭りに行う「野遊び」の実態について、ご紹介したいと思います。

099a8451_2 まず一人目の証言者は、現在でも自分の初節句に贈られた御殿びなを毎年大切に飾っている昭和3年生まれのともゑおばあちゃんです。

43日は新学期のはじまったばかりで、学校から半日で帰ってくると、机の上にひとつづつ風呂敷で包まれたお重が、姉妹の数、用意されていました。

お母さんが忙しい合間をぬって、この日のために手間をかけて作ったいくつものおかずをお重に詰めて、一人一人がそれぞれ別々に持っていけるようにこしらえてくれたものでした。

子ども心に、自分ひとり専用のお重を持って行けることがうれしくて、お母さんに感謝したものです。

お重の中には、「巻きずし」や「おいなりさん」、「煮あげ」といって人参・大根・ユリ根・牛蒡などを飾り切りしてそれぞれがきれいな色が出るよう素材ごとに別々に煮た煮物、寒天を煮溶かして紅白に色を重ねて固めた「ようかん」、「つぼ(タニシ)の卵とじ」等がきれいに入っていました。どのおかずも普段のものとは違って手間のかかるものばかりでね。つぼ(タニシ)なんかは、一週間前から田んぼでひろって水に漬けて泥吐きさせたものを茹でて味付けして、卵でとじるのですから、大変なことです。女の子ばっかり6人もいて、よくお母さんがやってくれたもんだと思いますよ。

それと、米を煮ておかゆから作った甘酒も瓶に入れて必ず持っていきました。昔は瓶が貴重でね。家にある空き瓶もいろんな大きさのものが限られた数しかなかったので、姉妹でどの瓶を誰が使うかでよくケンカになりましたよ。

それから、近所の同級生の女の子何人かと約束して近所の小高い丘に集まってお重を開くのですが、お互いのお重の中身を見せ合っこして、「これとこれ、くみっこ!」と言っては、おかずを交換し合うのがとても楽しかったです。でも、だいぶ昔の話だねぇ。まったく夢のように年が過ぎちもう。』と話してくれました。

 お話を聞いた後は、お重を開いた見晴らしの良い丘にも案内してもらいました。

 

次は現在88歳の水上の寿美子おばあちゃんからの聞き取りです。

Dsc_1561

43日のひな祭りは、1年の内にある行事の中でも子供にとっては一番の楽しみな日でね。

 毎年、一人1段づつ風呂敷に包んだお重を用意してもらって、子供たちだけで出かけました。

 お姉さんたちについてきた男の子たちも何人か一緒に行きましたよ。

 お重を広げるのは一カ所じゃなくて、お山の神さんの近くの山で少し食べたら、また風呂敷に包んで移動して、浅利与一のお墓の前とか、色々と移動してはその度にお重を開けて、その時合流したグループの子とおかずを交換して、日が暮れるまで楽しみましたよ(昭和8年~18年位)』

 

もう一人は、年代を変えて、寿美子おばあちゃんの次女のしげみさん(昭和30年代後半~40年代頃)にもお話を聞きました。

099a8454

『子供たちだけで、お重の風呂敷包みを持ってみんなで眺めの良い場所を求めて山に登るのですが、ちょうど43日あたりは山にも「ふきのとう」が出ていて、摘みながら行きましたよ。

3人姉妹だったので、母が3人分のお重をいつも用意してくれていました。いつもより手間のかかるおかずがいっぱいに詰めてありました。

 甘い「ようかん」や「おまんじゅう」はこどもが大好きなので真っ先にお重から消えました。でも、「煮あげ」の里いもなんかは最後まで残っていたので、もう暗くなりそうになって急いで山道を駆け下りてくる時は、風呂敷の端と端を結んでお重を背負いますが、だいたいどの子も、食べ残した里芋が中でゴロンゴロンと飛び跳ねる音がして、おかしかったです。ほんとうに楽しい思い出です。

 いまでも同級生とひなまつりにまつわるたくさんの思い出話をすると、花が咲きます。それぞれの家庭でおかあさんが子供たちを喜ばせようと一生懸命用意してくれたお重を、自慢し合いながら友達同士で見せ合っこしてね。おかずを交換すると、いつも食べている母の味とは違う他の家の味も堪能できて、面白かったです。

 私はこの行事が楽しくて大好きで、中学生になっても近所の子供達と一緒に参加していましたよ!』

 そして次は、お話を聞かせてくれた、寿美子さん、しげみさん母娘が再現してくださった昭和30年代の「ひなまつりのお重」の中身をご紹介しましょう♪

Dsc_1562 

中身は、右上から時計回りに、

①「巻きずし」具は、ちくわ・油揚げ・しいたけ・芋のツル(里芋の茎)・卵焼き・でんぶ入り 

②「煮あげ」人参・牛蒡・こんにゃく・さといもを別々に煮たもの

③「ゆで卵」卵焼きの場合もよくあった

④「ようかん」いわゆる水ようかんのことで、食紅などで色をつけたり、甘く似た小豆やあんこ、溶き卵、缶詰のみかんなども寒天液と一緒に流し固めて華やかにつくった

⑤「おまんじゅう」芽吹いたばかりのよもぎの若葉を摘んでつくったよもぎもち・中にあんこたっぷりの大福
                                     

 どれもおいしそうで、手間のかかったものばかりでした。「巻きずし」は「おいなりさん」にかわることもありましたが、「煮あげ」と「ようかん」はどの子のお重にも必ず入っていたとのこと。中でも「ようかん」はひな祭りのお重のごちそうの花形で、様々に工夫して作ることができ見た目も美しいし、甘くて口当たりが良いので子供たちは大好き。友達とも交換できるように多めに詰めてもらったそうです。

 この写真のお重、撮影の後はたいへんおいしくいただきました。いくら食いしん坊のまゆこでも独り占めせずに、女の子じゃない市広聴広報課Kさんと館長にも分けてあげましたよ♪

 ≪中央市広聴広報課Kさんが担当した「広報ちゅうおう平成273月号」のひなまつり特集は、市HPでも見ることができます。是非、ご覧ください!≫

Dsc_1548←しげみさんに教えてもらって、まゆこが作った「ようかん」 右端のものは溶き卵入り キレイでしょ~♪

さて、こんなにも楽しくて子供たちの心を躍らせた旧来のひなまつり風景を、現在の中央市内で見ることはありません。

山梨県ではどうやら昭和30年代後半を境に、地域で旧来行われてきた風習や行事が急速に失われていったことが分かります。2月のはじめに当館で再現した地域独特の節分豆まきもそうでした。その他に、七夕人形や十日夜、小正月行事もそうです。 

現在では全く行われていないけれども昭和30年代以前までさかんに行っていた地域独特の楽しい行事を、今はまだ、まゆこたちにいきいきと思い出深く語ってくれる方々が中央市にいらっしゃるので、本当に幸せだと感じています。しかし、あと十年もしないうちに、状況も変わっていくと思います。今のうちに地域の財産となる貴重なお話をなるべくたくさん記録しておく必要性を、最近強く感じているまゆこです。

まゆこ

 

 

 

2015年3月 7日 (土)

土偶の発見された横畑遺跡に行ってきました。

P3070239

昨日報告した土偶の採集された横畑遺跡は、資料館から歩いて7~8分の場所にあります。御坂山地の山裾から北へ緩やかに伸びた幅の狭い尾根上に遺跡があります。現在は道路と畑、住宅になっていますが、ここからの展望はとてもよく、甲府盆地を一望することができます。畑の土は黒々としており、作物は何でもできそうな土ですが、こういうところに昔の人々は魅力を感じて住居を営んだのでしょうね。
この遺跡は過去に2度ほど発掘調査が行われており、縄文時代中期後半の竪穴住居3軒、弥生時代後期の竪穴住居3軒、平安時代末の竪穴住居3軒と、方形に掘られた穴が34基ほど発見されています。

P3070241上は縄文・中央は弥生・下は平安末の土器

遺跡に立ってみると、畑の脇に赤い土器が点々と落ちています。つい癖で手を伸ばしてみると、縄文土器や弥生土器、平安時代末の土器があるわあるわ・・・です。
過去の発掘調査報告書を見ると、約2万年前の旧石器時代のナイフ形石器も発掘されているので、とても長い期間繰り返し人々が住んだ場所ですね。土偶が発見されても不思議はないことがよくわかりました。

2015年3月 6日 (金)

縄文時代の土偶が寄贈されました。

P3060202

先日、中央市歴史文化ボランティアの会員の方から、『昔、親父が畑で拾った土偶を寄贈したい』とのお申し出がありましたので、写真の土偶1点をいただきました。本来、こうした採集品は、遺失物法に基づき、警察へ届けなければならないのですが、畑の表面で採集し、量的にも少ない場合は、個人や組織でそのまま保有する場合もあります。
今回いただいた土偶は、中央市大鳥居の横畑遺跡から発見されたものです。採集品は胴のくびれ部から下の部分で、しかも両膝から下が欠けていますが、体の形や体につけられた模様などから、縄文時代中期後半の土偶の一部で、今からおよそ4500年ほど前のものであることがわかりました。

P3060203

山梨県内の遺跡からたくさんの土偶が出土していますが、1遺跡から1000体以上も出土した甲州市と笛吹市にまたがる釈迦堂遺跡は全国的にも稀有な存在で、土偶や土器が国の重要文化財に指定されています。しかし、その土偶は完全なものはなく、今回寄贈の土偶と同じように破損しているものばかりです。

P3060205

このことから、土偶はなぜ作られなぜ破壊されたのかさまざまな解釈や議論があります。土偶をよく観察すると、乳房やくびれた腰、大きなお尻、膨らんだおなかなどに特徴があるので、妊娠した女性を表していると考えられます。出産=生産=ものを生み出す力として作られ、出産する妊婦や子供の守り神であったのでしょう。また、子供が病気になったりすると、土偶のその病の箇所を破壊して、災いを取り除く祀りをしたのかもしtれません。

寄贈された土偶は、現在の大きさは高さ5.5cm、腰の幅3.3cm、暑さ3.3cmほどですが、恐らく本来の高さは15cmほどの大きさだと思います。

どのような願いを込めて作られたのか、そして壊されたのか、今は知ることができませんが、大事に保存し、展示していきたいと思います。

2015年3月 5日 (木)

ミニ企画展「温まる・しのぐ」(4)

   

 

 
 

短い上着である袢纏

 

日本の伝統的家屋は、風通しがよく夏は涼しかかったのですが、それは裏返していえば、すきま風だらけで、冬は相当に寒く、部屋の中はほとんど外の温度と一緒と言っても過言ではありませんでした。

当然家全体を暖かくするどころか、一部屋を暖めることすらできずに、暖を採るとは手元や足元、その場所だけを暖めるということでした。ですから、「火鉢」や「炬燵」「囲炉裏」などで、暖まることを「採暖」といいます。

Dscn67672_2 山梨では「ひじろ」ともいう囲炉裏

私たち日本人にはそうした伝統の血が流れているためか、暖房というとどうしても手をかざすと熱いくらいの温感を感じ、体がぽかぽかしないと暖かくないという感覚がすりこまれているようです。

炬燵(こたつ)

行火を安全に使えるようにしたものが炬燵です。室町時代に囲炉裏の上にやぐらを組み、布団をかけたものが始まりと言われています。熱源としては木炭や炭団(たどん)を用いました。さらに囲炉裏の周囲まで掘り下げた腰掛炬燵(堀炬燵)は明治になってからできました。現在の電気こたつの原型は行火のやぐらを木製にした置炬燵で、土製の火鉢をやぐらの中に置いて布団をかけました。

Dscn67492 やぐらの中に火入れがある炬燵

電気炬燵(でんきごたつ)

最初の電気炬燵は、大正時代の終わりころ発売されました。ニクロム線の電熱器をやぐらの中に置いて布団をかけます。置炬燵の炭火が電熱器に代わっただけのものです。

Dscn67172 やぐら炬燵の火入れを電気に

Dscn67192 昭和初期の東芝製電気発熱体

赤外線を熱源とした電気炬燵は高度経済成長時代になって登場し主流となりました。従来の電気炬燵は熱源が床置き式でしたが、「東芝」がやぐらの裏面に熱源を付けた電気炬燵を発売して、この形が人気を得ました。電気炬燵の熱源はニクロム線からシーズヒーター(ニクロム線を金属パイプでおおったもの)、赤外線ランプ加熱エレメント、レモン型赤外線ランプ、遠赤外線型というふうに変化しています。

最近、「ミツウロコ」から、今ある炬燵やぐらを利用して取り付けられ、豆炭四個で二十時間暖かいという豆炭炬燵も販売されています。農家で作業をするときなどに重宝しているようです。

 

 

 
 

電気炬燵

 

 

 

 
 

タイの高床式住居

 

2015年3月 1日 (日)

繭びな・竹びなつくり大盛況でした

Img_0034

2月28日(土)は晴天のため、NHKさんからの紹介放送で、たくさんの方がお見えになりました。また、本日の3月1日(日)はあいにくの雨天でしたが、山梨日日新聞をご覧になった方々がぽつぽつとお見えになり、それぞれの雛を仕上げて満足そうにお持ち帰りになりました。

Img_0044

お母さんや子供たちが、助け合いながら作る様子はよいものですね。3月1日が晴天だったら、職員もボランティアの方々も大変なことになったと思いますが、ちょうど用意した材料50組で、間に合うか心配したのですが・・・・

Img_0046

結局、4時には竹びな完了、繭びなもわずかを残して終了しました。合計97名の方が製作参加し、入館者は2日間で170名でした。協力していただいたボランティアの方々に感謝です。

次にはどんな行事を行うか、まゆこさんや富子さんと館長で相談しなくっちゃね。

« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »