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2014年1月30日 (木)

馬形土製品

現在、ミニ企画展で展示している馬形土製品について説明をしましょう。 

馬形土製品は、土馬(どば)とか、土製馬とも呼ばれています。 5世紀から平安時代頃までみられる、土をこねて焼いて作った小型の馬形製品のことで、素焼きの場合もありますし、須恵器のように釉のかかったものもあります。井戸や河川から出土することが多いのですが、まれに山頂からも出土しています。このため雨が降ることを祈ったり、雨が止むことを祈ったりする祭祀に関係が深いと考えられています。

Photo 展示中の馬形土製品 

神様の乗り物として神格化されてさえいる馬ですが、神様には疫病神もいれば荒神もいます。その荒ぶる神たちの働きである旱天・疫病・災厄を鎮めるために、土馬の脚や場合によっては体までも折ったり壊したりするのです。つまり疫病神の乗る馬自体を疫病神ととらえ、疫病神とその乗馬としての土馬を作り、その馬体を毀すことで速いスピードで広がる災厄や疾病を止めようとしたのでしょう。  

5世紀から7世紀ごろのものは、全国的に分布し、地域色もあり、個性的です。これに対して、8世紀の土馬は、平城京・長岡京・平安京や各地の官衙に集中し、規格・形態もほぼ統一されていて、朝廷のつくりだした祭に用いられたことが想像されます。 

前の時代の土馬が水みちや種々の遺構に存在していて、普通は一体だけ、それもこわされた形で見いだされるのに対し、8世紀の平城京の南端の遺跡の場合は古い川の跡から人形(ひとがた)30点、竈形(かまどがた)100点、人面墨書土器70点とともに馬形180点もが発掘されているのです。これは大祓といった一つの体系を持った祭で使われたということでしょう。  

山梨県でも笛吹市一宮町や北杜市白州町、金峰山山頂などで発見されています。いずれも小型で形はよく似ています。金峰山の例は、頭部と胴部が離れたところから別々に採集されたのに、合わせてみるとくっついたのです。これは、馬に乗った疫病神や荒神の行動を止めるための祭祀を行い、こわされたものだろうと考えられています。

Dscn4652 山梨県史に載っている馬形土製品の図

 今回展示したものは、中央市豊富地区の駒平遺跡の地表面で拾ったものです。本来どのようなところで使われたのか分からないのが残念ですが、県下の他の土馬のほとんどに顔がないのと比べて、顔の部分だけ見つかっているところが特徴的です。

2014年1月26日 (日)

江戸時代の陣笠と裃が寄贈されました。

笛吹市石和町の旧家から江戸時代の陣笠と裃2組が寄贈されました。

Img_0040 Img_0043

左は陣笠の紙袋で、文久4年2月と書かれています。右は陣笠です。漆塗りの陣笠は、大変良好な状態で、家紋が三ツ輪違い紋です。

下は裃です。麻の薄い布はのりが効いてシャキッとしています。小紋の波模様が鮮やかで、これを羽織った姿はさぞかし立派だったと思います。Img_0057

Img_0062

袴も同様です。こうした姿は幕末のどのような役割をしたのでしょうか?

文久4年は西暦では1684年です。1868年は明治元年ですから、幕府の屋台骨が大いに揺さぶられ、武士も町人も将来の姿が見えず、不安な時代でした。加えて、文久2年にはコレラが流行し、甲府では8月15日までに、390人が死亡しています。文久3年には農民兵が組織されるなど、風雲急を告げている状況です。甲州街道の石和宿もあわただしく人々が行きかっていたことでしょう。

中央市の豊富地域の人々も、文久元年には皇女和宮の降下に伴い、中仙道を荷役の運搬に駆り出され、多くの人々が助郷の役割を果たしました。

幕末~明治の貴重な資料をいただき、感謝したします。

2014年1月25日 (土)

小麦(5)

Tomiko

春になれば、小麦はどんどんでっかくなって、株分れをして、穂も出てくるからね。緑色の小麦の穂が、風に吹かれて波打つ景色は、本当にきれいじゃんね。今でも夢に見ちもう。早くぬくとくなってくれんかなあ。

 今日は採れた小麦の使い道を話さっかね。小麦は粉にひかんと使えんから、近所に1軒だけあった精米屋さんに頼んでひいてもらうだけんど、精米屋のおじさんは、まつ毛がうんと長かったから、いつでもまつ毛に白い粉がついていてなんともいえなかったさ。精米屋さんとはいっても、うちじゃあ米は作っちゃあいんから、頼むのは麦やとうもろこしやそばばっかりだっただよ。

 小麦粉は、うどん粉って呼んでたから、主にうどんを作ってたっていうこんだね。時々はメリケン粉って呼ぶ人もいたけんどね。メリケン粉は本当は、アメリカ産の小麦粉を呼ぶ言い方で、そのころは、製粉技術もアメリカの方がよくて、上等だったらしいよ。

Dscn45972 ごんばち(こね鉢)

山梨でうどんと言えば「ほうとう」のこんだよね。あっちこっちで年寄に話を聞いても、ほうとうは毎晩作ったって言ってるしね。お父ちゃんはちっくいころ山梨で育ったし、赤んぼうのときは、「ほうとう」の汁がミルク代わりだったって言ってたけんど、お母ちゃんは横須賀育ちで「ほうとう」は食わなかったから、うちじゃあ文化的断絶があっておもしろかったね。一晩おいて汁がなくなっちゃっとうような「ほうとう」が好きというお父ちゃんだったけんど、めったに「ほうとう」を作ってはもらえなかっただよね。それに、うちじゃあ、「ほうとう」とは呼ばずに、「のしいれ」って呼んでたね。

そういうわけで、うちじゃあ、うどんと言えば、汁をつけて食ううどん、山梨でいえば「おざら」ちゅうもんを食うことが多かったね。汁にはたくさん具を入れるのが山梨方式らしいけんど、お母ちゃんはそれも自分の文化にはなかったようで、何も入れない汁が定番だったね。呼び方も口がまだよくまわらん弟が「おんどん」って言っていたから、「おざら」じゃあなくて、「うどん」て呼んでいたかもしれんね。

Dscn45942 のし板とのし棒


 「ほうとう」と同じ味噌仕立てで食う「すいとん」はよく作ったね。簡単に作れるから、飯が足りんときにはけっこう食卓にのぼった。食糧難の時は都会でよく作ったらしいよ。田舎じゃあ「ほうとう」でも「おざら」でも作れるけんど、都会の人にゃあ作れんからね。すいとんのもちもちとしたとこが好きで、いくつも入っているとうれしかったもんさ。

「うどん」も「ほうとう」も「ごん鉢(こね鉢)」、「のし板」と「のし棒」を使って作る。飯が足りんときにゃあ、おでましだ。のし板はかなり年季が入ってたねえ。ちっとたってからは、製麺機っていう便利な道具がうちにもきて、子どもも手伝ったから、お母ちゃんもずいぶん楽になったと思うよ。

Dscn45982_2 製麺機

2014年1月24日 (金)

中央市の先人が発明した「蔟」

 こんにちは、まゆこです。 今日は、大正・昭和に活躍した郷土の先人をご紹介します。

Dsc_1811 「土橋伴三郎」さん

  こちらは、わがまち山梨県中央市(玉穂地区)の先人で、以前に「大正時代の特許」という記事内でもご紹介した、発明家『土橋伴三郎』さんです。 土橋さんは大正時代に、当時日本の基幹産業であった養蚕業に関わる道具を発明し、大正14年、時の特許局長官より「特許スベキモノト確定シタリ」という特許証を受けています。

Dsc_1807 土橋家に伝わる「特許証」

 日本の特許制度は明治18年からはじまりました。大正10年には先発主義から先願主義(先に発明した人より、先に願い出た者が優先して特許権を取得できる)に移行し、日本中の多くの発明家が競って新発明の登録を出願するようになりました。そして、当時は外国への日本の生糸出荷額が最高潮に達していた時代を反映して、養蚕や生糸生産に関わる道具の開発は、全国各地の発明家注目の的でした。

  土橋伴三郎もまた、大正13年に出願していますから、お国の為日本の近代化に不可欠な外貨獲得の旗手である、生糸の輸出を支える養蚕業に貢献しようと奮起した若者の一人です。

 

 Dsc_1669Dsc_1668

土橋さんが発明し、国に登録された特許の明細書は、国立国会図書館に収蔵され、現在でもその明細書の内容は特許電子図書館IPDLで検索することが出来ます。

 

 しかし、特許証や特許明細書には、当然のことながら発明者の人物像については書かれていません。郷土の優れた先人とは、どのような人であったか? 気になりますね♪ 我が町の先人、土橋伴三郎さんはこの発明をどのように発想し、また特許取得後、この道具は使われたのか? など、俄然、土橋伴三郎さんという人物に興味が湧いてしまいました。 そして、手がかりを求めていたところ、なんとまゆこは土橋伴三郎さんの息子さんにお会いすることが出来たのです。 ヤッター!

 

 当初、特許証に記された場所の現住所を訪ねましたが、もうすでにそこに土橋家はなく、ここでお仕舞かと思われました。が、あきらめきれなかったまゆこはその近辺のお宅に土橋さんの情報をご存じないか、聞き込みを開始。そして意を決した一件目の突撃訪問で、「土橋伴三郎は私の父です」という方と(あっけなく)遭遇できたのです!(オオ、ジーザス!) 

 

 息子さんは「まだ自分が生まれる前、しかも父親の結婚前の事なので、詳しくはわからないのだけれども・・・」と次々と質問するまゆこに申し訳なさそうに答えてくれました。   

 

そのお話によると、伴三郎さんはまだ独身の24、5歳の時に、こうもり傘の形状をヒントにこの道具を発案しました。そして特許取得後は、近隣の若者4、5人を連れ出って、群馬・茨城・埼玉等に、珍どん屋を伴って宣伝しながら販売したというのです! 息子さん宅の玄関には、その際埼玉で買ってきた飛行機の巨大な木製プロペラが飾ってありました。

 

 

Dsc_1895 土橋式上蔟器図面

 

この「蔟(まぶし)」は、さやにカイコを入れた受け皿を吊るし、荒縄をさやの周りに球形になるように張り巡らして営繭場所をつくるものです。この発明は数個つなげて蚕室の天井などにかけて吊るして使えるので、「面積を経済的に使うことができ、使用後は受け皿を外せば、非常に小さくなって収納や運搬にも便利」と特許明細書に記されています。

 

Dsc_1893 土橋式養蚕用上蔟器の使用実例写真(「玉穂町誌」より)

 

最後に、息子さんとそのお嫁さんに「どんなお父さんでしたか?」と質問すると、以外にも、「大変穏やかで、やさしい人でした」とのお答えでした。

 

 まゆこは、血気盛んに田舎をとび出して世界を相手に勝負してやる!という感じの明治生まれの強気な若者を想像していたので、意外でした。「実るほど頭の垂れる稲穂かな」という慣用句そのままの素晴らしいお人柄であったようです。お会いしたかったなぁ♪

Photo まゆこ

 

2014年1月22日 (水)

寒い日は「懐炉」のことを調べよう!

こんにちは、まゆこです。 寒い日が続きますね。

 Dsc_5839 資料館玄関脇にある水がめも厚く氷が張ったまま一日中解けませんよ、氷の下で金魚がゆっくり泳いでいる姿が見えて、カワイイですけどね♪ あ~、でも今日も寒い、さむい!

  こんなに寒いとあたたまるものの話がしたくなります。先日の「湯たんぽ」に続き、今日は主に携帯用の暖房具についてご紹介しましょうか。

 私たちは現在、使い捨てのカイロをよく使いますよね。ビニールの封を切って、中身を取り出せば、すぐに紙製のカイロが温かくなり、しかも用途に合わせて様々な種類(貼るタイプ、足の裏に貼るタイプ、ミニタイプ等)もあって、とても便利です。

 ところで、その使い捨てカイロの中身って一体何なのでしょうか? カイロ工業会のホームページによると、カイロの紙袋の中には、「鉄粉、水・塩類、活性炭、保水剤(観葉植物の保水土であるバーミキュライト)」が入っており、鉄が空気中の酸素と反応して酸化鉄になる(錆びる)化学反応時に出る熱を利用しているのだそうです。鉄粉以外の材料は鉄の錆びる速度を早めるために入っているそうです。

 なんでも、朝鮮戦争でアメリカ兵が使用していた、水筒のような容器に鉄粉と食塩をいれて利用していたものを、日本人が工夫して使い捨て携帯カイロを生み出したようです。現在では「カイロ」とカタカナ書きすることが多いですが、漢字ですと「懐炉」と書きます。

 懐炉の発祥はもともと江戸時代に温めた石を懐に入れた「温石(おんじゃく)」からはじまったといわれています。明治時代には「灰式懐炉(はいしきかいろ)」(炭粉を紙袋に詰めたり、練って容器の中で燃やす)、大正時代には「ベンジン懐炉・白金懐炉(はっきんかいろ)」(ベンジンの気化ガスと白金の触媒作用を使って燃焼)、昭和に入り1970年代になると、現在の「使い捨てカイロ」が次々と発売されていきました。

 まゆこは「使い捨てカイロ」しか使ったことのない世代です。白い息の出る寒い朝の通学には、ポケットに必ず入れる必需品でした。しかし、これ以前の「灰式懐炉」などは使ったことはおろか見たこともなかったので、この機会に当館収蔵品の灰式懐炉をよ~く見てみようと思います♪

 まず、

 Dsc_5788 当館常設展示室内の懐炉コーナー

 左から懐炉灰、小判型灰式懐炉、内部に不燃繊維を施したコンパクトケース型で練って固めた灰を中で燃焼させる懐炉、大型の「灰式寝炉」が展示してありますが、正直言って、「灰式懐炉」にもこれだけの種類があったなんて、びっくりします。

 

Dsc_5881 灰式懐炉の燃料である「懐炉灰(かいろばい)」

 一回に使用する分量の灰が、紙にくるまれた一本の筒になっています。

Dsc_5826 「小判型灰式懐炉」

 灰式懐炉とは、 木炭の粉末にナスの茎、麻殻、桐灰を混合して紙筒に詰めた燃料を金属容器内で燃焼させるものです。燃料となる炭の粉末はキャンディのように紙にくるまれて片側の口がキュッとねじって止めてあります。そのねじった紙の先に火をつけて金属製のケースにしまって使用するようです。

Dsc_5882 Dsc_5791 「灰式寝炉」130㎝×230㎝

 これは灰式懐炉と同じ時期に使用された暖房器具ですが、就寝時に布団の足元に置いて暖をとるのに使用したため懐炉ではなく、「寝炉(しんろ)」という名称がついています。携帯懐炉の4倍ほどの大きさなので、燃料の棒状紙筒も大型のものが使われました。また、燃料を置く場所の構造が特徴的で、就寝時に蹴飛ばして、本体が横向きや裏返しになっても燃料が常に上に向くように工夫されています。

 Dsc_5827 Dsc_5829 「コンパクトケース型灰式懐炉」

 こちらはちょっお洒落な「コンパクトケース型灰式懐炉」です。内部に不燃繊維を施し、その上に紙筒タイプではなく、スティック状の練り固めた灰を置いて燃焼しました。

 以上、今では使われなくなってしまった「灰式懐炉」ですが、明治時代から、先人は炭でできた燃料とそれを収めるケースに工夫を凝らし、出かける時も暖をとれるように、いろいろと試行錯誤してきたのですね♪

  熱い夏の盛りには考えたくないような「懐炉」のこと。寒いこの時期に是非、その歴史や仕組みを見にいらしてください。事務室にお声を掛けていただければ、まゆこがいつでもご案内しますよ! 

Photo まゆこ

 

 

 

2014年1月21日 (火)

小麦(4)

Tomiko_2 大寒だからしょうがねえけんど、なんぼでも寒いじゃんね。インフルエンザとかノロとか変なもんもはやってるし。

小麦もいっさらでかくならんじゃんね。ところでさ、郷土資料館のある豊富とか、その南の方の大塚なんかの畑は、「のっぷい」っていって、きめが細かくてねえ。栄養やら水やらがたいへんへえってるから、長い人参でも大根でもすっとスマートに育つじゃんね。ほんだけんど、うちの畑はものすごい粘土質でね、雨なんか降ったひにゃあ、長靴をはいた足が畑に埋まっちゃって、抜かっかとすると足だけが抜けてくるっちゅうけんまくさ。それほどまでにならんときでも、長靴には何kgも粘土がくっついて、重くて重くて歩きにくいのなんの。今じゃ道はみんな舗装されているけんど、私がちっくいころは土の道だったから、畑どうって道どうって同じこんさ。

ほんだから、大根なんか植えとうっても、まっすぐ育つなんてことはありっこねえさ。採れるのは、途中でいくつもの股に分かれて、ねじくれひねくれた大根ばっか。人参どうって同じさね。うちの畑に植えられた人参が、のっぷいの大塚人参や豊富の長人参を見たら、なんちゅうまっすぐの人参ずらって、びっくらこくらね。

Dscn45622 豊富の長人参

この土は、水や空気が通らんばっかじゃなくて、肥料の効きも悪いし、雨が降れば泥団子で、晴の日が続けば地割れがおきるからね。どうしようもねえ土さ。粘った土が農具にくっつくから、畑を耕すのは容易のこんじゃあねえ。だからお父ちゃんは、畑にたいへんの落ち葉や枝なんかを、入れてたね。落ち葉や枝は、周りをでっかい木に囲まれていたから、なんぼうでもあったもんさ。

Dscn45502 資料館のふんずき


畑を「ふんずき」で踏んで、そのくぼみに木の葉やらなんやらを入れたさ。ほうして次の畝の土をかぶせていくちゅうわけ。「ふんずき」っていう道具はこの土にゃあ欠かせんね。何本もあったよ。「ふんずき」っちゅうのは「踏鋤」と書いて、「ふみすき」っていうのが本当だけんど、なまって「ふんずき」って言っとうだね。西洋のシャベルと同じもんだけんど、たてに細長いっちゅうわけ。写真のふんずきは芯が木で、周りに鉄の歯がくっつけてあるけんど、うちのふんずきは鋤の部分は全部鉄でできてたね。

今は、ちっくい耕耘機があるから、それで耕したり、弟なんかおっかないこんじゃん、重機で耕したりするだよね。まあ、どっちにしろ深く耕せるところが、全然ふんずきとは違うね。ふんずきで踏んでも、土はまだ塊のまんまだから、こんだ「三本歯」(三本鍬)っちゅう道具で塊を崩さなけりゃあならんだよ。それもしなんでいいだから、機械の力っちゅうはすごごいもんじゃんね。

2014年1月20日 (月)

「富子さんの部屋」③(養蚕器具、蔟の変遷)

こんにちは、まゆこです。

 本日は富子さんの部屋最終講義ですよ♪ さあ、いよいよ「回転蔟」についてのご紹介です。

Dsc_2117 前回までのおさらいをサラッとしますと、「蔟(まぶし)」は小枝を集めてまとめた「粗朶蔟(そだまぶし)」から稲わらを折って利用する「折藁蔟(おりわらまぶし)」へと移行し、さらに藁の仕立て方を工夫して折り畳み自在になった「改良藁蔟(かいりょうわらまぶし)」へと進化しました。 今回はこの「改良藁蔟」の次に出現し、現代の養蚕において全国的に最も広く使用されている「回転蔟(かいてんまぶし)」についてお話したいと思います。

 Dsc_2006 板状のボール紙でつくられた一枚の蔟は、縦13個×横12個で計156個長方形で区画されており、その一つ一つの区画が蚕一頭一頭の営繭場所となります。さらにこの1枚の蔟を10枚一組にして支持枠に固定し、上蔟後は天井から三組ずつ吊り下げて使用します。 

 「回転蔟」という名称は、天井から吊り下げられ支持枠で固定された蔟が、営繭場所を探して上へ上へと移動する性質のある蚕の重量分布によって、回転するように仕立てられているところからきています。

 Dsc_5851 Dsc_5853 特許第70116号「回転する格子型蔟支持枠」斎藤直恵(特許電子図書館IPDLより)

 この回転蔟は、大正13年~15年の間に山梨県竜王村(現在の甲斐市)の斎藤直恵によって、板紙による区画蔟の原型と収繭器、自然上族装置として蔟を回転させる発想・器具等が特許取得されました。 山梨県では、昭和4年に回転蔟を製造販売する会社が設立され、山梨県下の養蚕家が使用しはじめます。様々な利点があったため、戦前の昭和15年には山梨県における50%の養蚕農家が使用していましたが、全国的には昭和30年代に急速に広まりました。

Dsc_2120 当館常設展示の回転蔟

 その利点には、(1)ボール紙という材質の利点 (2)区画されていることの利点 (3)吊るすことの利点 (4)回転することの利点 の4つのポイントがあり、それぞれの利点が養蚕技術の進歩に多大な影響を与えることになりました。

 (1)ボール紙という材質の利点→藁よりも堅固で半永久的な再利用に耐えうる素材でありながら、藁と同じく軽く安価で大量生産に向く素材でした。また、適度に水分を吸収するため、繭の品質に関わる乾湿度管理に適しています。

 (2)区画されていることの利点→板紙に切り込みを入れ、縦横組み合わせて作られるため、工場での大量生産が可能となり、改良藁蔟と同じく折り畳みも自在でした。また、区画された156個の長方形にむらなく営繭させることは、面的有効利用の究極でした。 その上、区画の大きさがすべて均一なので、2頭一緒に繭をつくってしまう玉繭(製糸に向かない不良繭)が皆無になりました。

Dsc_2118 折り畳んだ様子

 その他、区画蔟が養蚕家にもたらした最大の福音は収繭作業の驚くべき効率化です。

Dsc_5861 特許第61728号「格子型蔟検出用収繭機」斎藤直恵(IPDLより)

 斎藤直恵は大正12年の最初の特許申請において、一枚の区画蔟から一気に繭を押し出して収繭する道具を登録していますが、これはそれまでの蔟では考えられない発想でした。

Img_0066 繭掻き棒での収繭

 区画蔟は斎藤直恵考案の収繭器を買うことのできない養蚕家であっても、繭掻き棒と蔟を固定する台を使用すれば、収繭作業は改良藁蔟に比べてもあっという間に終了したのでした。

 (3)吊るすことの利点→区画蔟は板状なので、固定枠で10枚ひとまとめにして天井より上下に三段吊るすことで、空間の立体的利用ができ、小面積で多数の繭を収納することができます。また、蚕の排尿が蔟から落下するので汚染繭が減少しました。さらに、風通しが良くなることにより、営繭後の低湿度管理が徹底し、高品質の繭が生産できます。

(4)回転することの利点→上蔟中の蚕が上へ上へとのぼる生態を利用し、蔟の上部にカイコが集中すると人手を掛けずに自然に回転して、常に蔟上部が空いた区画となるようになっているため、大幅な労働力削減ができるということです。蚕の性質を蔟そのものを回転させるという着想によって最大限に利用した、蚕にも人にも優しい秀でた発想でした。

 現在では、全国の養蚕家のほとんどがこの「回転蔟」を使用しています。最近では「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録を目指している群馬県の動向がクローズアップされていますが、その中でもやはり、日本の典型的な養蚕風景として、回転蔟が天井狭しと吊り下がる養蚕家屋内の様子が写し出されていることが多いです。

Photo_5 かつての山梨県中央市内養蚕家での回転蔟使用例

 日本の養蚕業において画期的な道具となったこの「回転蔟」ですが、山梨県人の発明だったとは驚きです! しかし、斎藤直恵さんの特許申請時の住所は中巨摩郡竜王村(現甲斐市)となっていたので、竜王町村誌なども調べましたが、どこにも記載されていません。養蚕における重要な道具である蔟の機能的完成形である「回転蔟」を天才的な発想で生み出し、日本養蚕業・製糸業に偉大な貢献をした人物を地元の私たちが知らなかったなんて、まゆことしてもかなり悔しい気持ちです。

 今後は富子さんのお部屋から飛び出して、この回転蔟に関わる、「斎藤直恵さん」について、「販売会社として設立された特許上蔟器製造株式会社」について等々、もっともっと調べて皆さんにお伝えしたいと考えているまゆこです。

Photo_4 まゆこ

2014年1月19日 (日)

戦争関係資料が寄贈されました

先日、中央市木原出身の方から、太平洋戦争に参加した陸軍航空隊所属の方の資料が寄贈されました。鉄兜・皮脚絆・皮雑納・帽子・模擬手投げ弾・拳銃ケース・奉公袋・外套・野営用天幕・階級章などです。資料館では所蔵していなかった資料もあり、大変感謝しています。そこで、寄贈資料の一部をご紹介します。

Photo 拳銃ケース(全長19cm)

Photo_2 奉公袋表

Photo_3 奉公袋裏

拳銃ケースは少し小さいようですが、航空隊将校の持つ拳銃が小さかったのかと思われます。94式自動拳銃かもしれませんが、なお型式を調べたいと思っています。また、奉公袋には入れておくべきものが書いてあります。肌身離さず持ち歩き、命より大切に扱ったのかと思うと、昔の人々の苦労がしのばれます。大切に保管し、展示にも生かしたいと思います。

2014年1月17日 (金)

湯たんぽ大好き!

 こんにちは、まゆこです。

 まゆこの机は、一年中開放的な資料館事務室の入り口にあります。ですから寒いこの頃は、イスに湯たんぽ(プラスチック製)を置き、真綿のひざ掛け(自作)を愛用して寒さをしのいでいます。 これがなかなかいいんですよ♪

 湯たんぽは、手軽に持ち運べて、手や足、お腹や腰など好きなところを優しく温めることができる優れものですよね。 湯たんぽの残り湯を朝、顔を洗うのにつかった懐かしい記憶のある方もいらっしゃるのではないかしら?

 今日は、プラスチックで作られる前の「湯たんぽ」を豊富郷土資料館収蔵品の中から、みてみましょうか。

⦅かまぼこ型⦆

Dsc_5793 「取っ手付きの陶製湯たんぽ」

Dsc_5792 ロールケーキのような「国策水湯たんぽ」は、戦争中の金属不足を補う目的であえて陶器でつくられたものです。夏は水を入れ、陶枕として使用します。また、非常時用の飲料水の貯蔵のためにも使われたといいます。湯を入れる時は布でくるんで使ったようですよ。

⦅亀の甲羅型⦆

 Dsc_5825 金属製の湯たんぽが大正・昭和の初めに多く使用されるようになります。胴の波は薄い鉄板の強度を増すための工夫だそうです。

 白い陶製のものも、戦時中に金属製(トタン・ブリキ)亀の甲羅型を模してつくられた湯たんぽだと思われます。栓もねじ込み式の陶器製です。

 古くからあった陶製の湯たんぽは大正・昭和の初めにはブリキなどの金属製になりましたが、戦時中は金属物資不足のため、また陶製の物が生産されています。現在では、プラスチック製が主流ですよね。

 まゆこは陶製の湯たんぽを使ったことがないのですが、現在でも生産されているらしく、保温性が高く金属製に比べて長時間使用できるところや、陶器の質感に独特のぬくもりがあるということで、通販などで人気を得ているのだとか。

 ちなみに、陶器の滑らかな肌触りが温かいものであったらどうだろうと、熱いお茶の入った湯のみを手で包み込んだ時に想像してみたら、無性に陶器製の湯たんぽが欲しくなってしまったまゆこです。

 イケない、いけない!! 昔の道具を調べていくうちに、道具に込められた先人の知恵やその道具の機能に関する魅力を知ると、いままで自分に見えていなかった新しい世界が広がったような気がして、とてもうれしくなります。そして調子に乗って・・・。 でも、今回の購入はしばらく我慢する予定のまゆこです♪(だってたくさんありすぎてキリがないんだもん)

Photo まゆこ

2014年1月15日 (水)

どんど焼きのお団子を焼く棒(枝)について

こんにちは、まゆこです。

 Dsc_5798

  1月14日、山梨県中央市玉穂地区下三條のどんど焼きに参加しました。

 地区児童館の広場で行われた下三條のどんど焼きでは、オコヤ等は作らず、シンプルに習字紙を燃やしたり、団子を焼いていましたが、参加している大人も子供たちも年に一度のどんど焼きの火に神聖なものを感じるのか、なんだかとってもまじめな表情で集っていましたよ。

 今回の「まゆつぶ」は、燃え盛る火でおだんごを焼くための装置が、みなさんそれぞれでとても興味深かったのでレポートします♪ 参加者のおだんご焼き棒を分類してみますと、

Dsc_5823 左から、「つりざお型」、「首飾り型」、「枝刺し型」がありました。 旧来からあるのは、繭玉などに見立てて作った丸いおだんごを、切ってきた木の枝分かれした先に、お花のように突き刺す「枝刺し型」だと思います。

 しかし、まゆこが下三條で、今回目撃したおだんご焼き棒は、角材におだんごを一列に突き刺した針金をくくり付けるものが半数を占めていたのでした。 このタイプにも2種類あり、針金の先についたおだんごが右に左にぶらんぶらんする「つりざお型」と、おだんごを刺した針金の両端を角材にくくり付けた「首飾り型」がありました。

 Dsc_5810 「首飾り型」と「枝刺し型」が並んでだんご焼き。

Dsc_5815  「つりざお型」は、棒の先にくくり付けた針金の先におだんごをまとめて5個突き刺してぶらさげるもの。

 Dsc_5819 「首飾り型」は、棒の先にくくり付けた針金におだんごをアクセサリーのように突き刺し、針金のもう一方の先を棒先の20センチくらい下にネックレスのようにくくり付けたもの。

 まだまだ自然豊かだと思っていた中央市ですが、新興住宅街では、おだんごを突き刺すのにちょうどよい枝を手に入れることがだんだん難しくなってきているのでしょうね。 どんど焼きの行事そのものだけでなく、おだんごを焼く棒もホームセンターなどで手軽に購入できる角材へと変化してきたわけですね♪

 枝刺し型のおだんごをもったあるお年寄りが、角材に針金仕立てのおだんご棒を見て、「お嬢ちゃんち、うまく考えたじゃんけ。うちも来年からそうするだ」と声をかけていました。

 また、そんなに広大ではない児童館の広場でのどんど焼きは、子供たちがお習字の紙をバサッと投入するたびに、しばらくすると風にあおられて火の粉が敷地外へ空高く飛んでいこうとします。 何人もの消防団の方々が、必死に、飛び散る火の粉が遠くに舞い散らないように阻止してくださっている姿が印象的でした。

 しかし、どんど焼きの様子は少しずつ変化しても、小正月の神聖な炎に集う人々の心は、昔も今もあまり変わらないのではないかな、という気もします。

Photo まゆこ

2014年1月13日 (月)

馬と蚕の版木

 こんにちは、まゆこです。

 本日は、ただ今開催中のミニ企画展「ウマ・馬・午」(平成26年1月5日~3月2日)の展示より、まゆこお気に入りの一点を依怙贔屓でご紹介したいと思います。

 Dsc_5784 西島和紙の紙張幕の意匠

 「超リアルなお蚕」と「一ノ瀬桑」、「馬」、「繭」が図案化されています。なかなか秀逸でしょ♪

 これは「紙張幕(しちょうまく)」という養蚕用具に押印されたマークです。

 「紙張幕」とは、蚕室に蚊帳のように天井から床まで張り巡らせて使う、大きな紙でつくられた幕のことです。蚕の保温や防寒のために用います。主に掃き立てたばかりの1齢から2齢の蚕(稚蚕)を寒さから守る目的で使用されました。

 山梨県の紙の産地である市川大門町(現市川三郷町)と中富町西島(現身延町)で生産され、全国各地の養蚕家に販売されていました。

 開催中のミニ企画展では、身延町歴史民俗資料館よりお借りした「西島和紙の紙張幕版木」を展示しています。大型の紙に押印されただけあって、約35㎝×約40㎝の大きな版木です。

 Dsc_1979 蚕の頭部の描写も細部まで超リアル!蚕好きのまゆこにとっては感激の版木です♪

 しかし、なぜ養蚕の道具に馬の図柄が入っているのでしょうか?!

 実は、ミニ企画展でもパネルでご紹介していますが、市川大門町でつくられていた紙張幕にも「馬と繭」が図案化されています。

 養蚕と馬とのつながりは、古来中国からの伝承である「馬と娘の悲恋物語」がベースとなっています。この物語は日本に広く伝承されるに従ってそれぞれの地域で様々なパターンの民話に変化していきましたが、基本的には「娘に恋した馬が、娘の父親の怒りをかって殺されてしまい、死んだ馬の皮が娘を包み込んでさらっていき、桑の木に引っ掛かっているのをみつけると・・・、美しい糸を吐くおかいこが発生していた」というようなストーリーになっています。

 馬と人間の関わりを探るただ今開催中のミニ企画展ですが、その中でも、中央市豊富地区の養蚕農家でも稚蚕飼育所が設置される昭和40年代までよく使用したという「紙張幕」は、地域の方々にとっても懐かしい資料なのではないでしょうか

 是非、「馬と蚕」の関係にも注目してご覧になってみてください♪

 Dsc_5786 ミニ企画展開催中は「藁馬づくり」も体験できます! どんど焼きの時に連れて行って、道祖神さまにお願い事をすると、きっと良いことがありますよ!

Photo まゆこ

2014年1月12日 (日)

小正月イベント

 1月11日から13日の三連休は、資料館は無料で入館できます。

 その上希望する方は藁馬を作ることができます。30分~1時間くらいかかるので、小さいお子さんが作るのは無理ですが、午年の縁起物として飾っておくのにちょうどよい大きさの、かわいいお馬さんです。

Dscn45632 6年生の男の子も頑張って作りました

 昨日は、何人かの方が馬作りに挑戦してくれました。じょうずにできましたよ。鈴をつけて、手綱や鞍をつけるといい感じです。

 藁馬を作るのは難しいお子さんたちには、福笑いやすごろくを用意しました。みなさん家族で楽しんでくれました。伊勢神宮に東海道を歩いて行くというすごろくには、新たに「秋葉さんに参詣するので寄り道、1回休み」や「津まで船で行くので、4つ進む」などのスリルあるルールが付け加わりました。

Dscn45652 見えてるみたいにじょうずだよ。

Dscn45692 だれが一番に参詣できるかな。

 今日も明日も藁馬を作れますので、どうぞお越しください。

2014年1月 8日 (水)

「富子さんの部屋」②(養蚕器具・蔟の変遷)

 こんにちは、まゆこです。

 Dsc_2117 今日は先ず、富子さんの手元に注目してください。彼女はいま熟蚕を一頭手に持ち、上蔟の時がきたことを見極めているところです。上蔟作業は「ひきひろい」とも言われました。

Dsc_2110  桑葉をモリモリと食べている真っ白なおかいこに混じって、体の色があめ色に透き通り、桑葉を食べずに上へ上へと登ろうとしている蚕が何頭か出てくると、そろそろ上蔟作業の開始です。

 大正時代に入ると、生産量よりも機械製糸に向いている良質の繭の生産が奨励され、繭質を左右する営繭時の飼育状況が重要視されるようになりました。そのため、営繭の場となる蔟の改良に注目が集まるようになり、昭和初期にかけて、養蚕技術や器具に関する優れた発明が生まれました。

 Dsc_2013 改良藁蔟(かいりょうわらまぶし)

 数本の藁を束にしたものを平行に置き、その間を鋸歯状になるように藁でつないだもので、連結部は細糸で縛ります。細糸の代わりに藁、針金を利用したものもあります。 発明者は明らかではありませんが、大正時代から使用されていました。 

 使用時にはアコーディオンのように広げて適当な空間を作り、使用が済めば狭くたためること、山型の適度な空間で営繭状態が良いこと、農家で自作も可能なことが長所でした。

 また、大正時代初めから普及した養蚕技術である「菰抜き(こもぬき)」が容易であることから、当時としては、身近にある自然素材を利用できて養蚕技術的にも優れた最良の蔟といわれていました。 「菰抜き(こもぬき)」とは、熟蚕が繭をつくる直前に排泄した糞尿を取り除く作業のことです。 繭の品質不良(具体的には繭解舒率不良)は上蔟時の高温多湿にあるという知識が、全国的に大正初めころからひろまり、多湿の原因となる排泄糞尿を上蔟後除去する技術が普及していたのです。

 しかし、収繭作業は折藁蔟と同じく、一つ一つ手で行う手間のかかるものでした。

 この改良藁蔟は「小石丸」など、小型の日本原産種のお蚕にとっては足掛かりが良く繭をつくりやすいということで、現在でも高級絹糸を生産する養蚕家が使用しています。

 藁のみの造形で、折り畳み自由で繰り返し使える機能的な蔟をここまで完成させた先人たちはホントにすごいですよね! 製作の仕方をどなたか教えてくださる人がいらしたら、是非作ってみたいと思っているまゆこです。

 Dsc_2006 回転蔟(かいてんまぶし)

  さてつづいては、現代養蚕家におけるスタンダードな蔟「回転蔟(かいてんまぶし)」についてまとめてみたいと思います。素材も藁ではなく、ダンボール紙でできています。

 オッと、まゆこは今日も蔟について熱く語りすぎてしまったようです。やはり次回の記事にしましょう。まゆこが夢中の「蔟」について、よろしければ、「富子さんの部屋③」でもおつきあいくださいませ♪

Photo まゆこ

2014年1月 5日 (日)

小麦(3)

Tomiko 明けまして、おめでとうごした。

小麦の話だけんど、今日はちっと大麦の話をするじゃんね。

 

オオムギは日本にゃあ弥生時代の3世紀ころに、中国を伝わって来たっちゅうよ。ほうして、奈良時代にゃあ、へえ広く作られただって。粉する手間がかかるコムギに比べろば、オオムギは粒のまんまで食えるから手間がかからんじゃん。その上、コムギよりも熟すのが早いから、米の裏作にもちょうどよかっとうっていうこんだよね。毎日白い米の飯ばっか食うほど米ん採れんから、その増やしにもなるって、コムギよりか大事にされて、作る面積も広かったとうだよね。明治時代にゃあ、小麦の3倍も広く作ってたらしいよ。米がたいへん採れるようになってからは、使い道が多い小麦にとってかわられたっていうこんだね。

 

日本じゃあ種子(実)を炒って煎じたもんを麦茶にしたり、麹を生やして醤油・味噌も作ったりしてるねえ。麦焼酎もあるし、炒ったオオムギを挽いたはったい粉(麦こがし)は砂糖や湯と合わせて練って、菓子として食えばうまいだよね。 

Dscn45422 麦茶などを炒る焙烙(ほうろく)

お麦(おばく)っちゅって丸麦を一晩水に浸けてっから、小豆なんかを入れてとろとろと煮る料理もあるだよ。囲炉裏の炭火で煮ると、畑に行っている間に出来上がっていて、ネギを入れた味噌をつけて食う。これがものすごくうまいって、近所のおじいさんが言ってとうけん、うちじゃあ食ったことはなかったなあ。 

その代わりと言っちゃあおかしいけんど、麦こがしはよく食ったね。甘いし香ばしいし、らくがんみたいだけんど、練り足らんで粉みたいに残ったところが、きな粉を食うようでまたうまかった。麦茶も夏になると、よくほうろくで炒っていたもんさ。炒るとだんだん香ばしいにおいがしてきて、少しはぜて中の白い実が見えるようになってくるとできあがりだね。そのころは、麦茶にも砂糖を入れて飲むのが普通だったね。今じゃ甘い麦茶なんて考えられんと思うけんどね。

Dscn45392 今も売られている麦こがし

Dscn45462 大麦を炒った後、石臼で挽く

Dscn45412 砂糖、塩を加えて湯で練るとできあがり

 

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