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2017年3月31日 (金)

勤務最後の日

今日は館長・まゆこ・富子の3人の職員の最後の日です。明日からは新しい指定管理者の下、新たに3人の職員と指定管理者の職員がやってきて、新しい事業を展開することになっています。

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館長とまゆこはそれぞれ県関係の文化施設に行きます。富子さんは秘密です。楽しく大変でもあった数年間ですが、中央市や豊富地域の歴史や文化・養蚕産業に拘わる発信が出来たのではないかとおもいます。なお、村の蚕影大神さんも館の隣にお迎えし、養蚕にかかわった多くの方々の歴史を、末永く伝えることができるようになりました。

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4年ほど前にブログも始めて、アクセス数が17万件になろうとしています。小さな資料館ではまあまあの数字だと思っています。自画自賛?でしょうか。
また、6年前の入館者と比較すると、今年度は8700人ほどになりますので、1.5倍ほどに増加しています。企画展やミニ企画展、歴史文化散歩、講演会、春夏秋の子供祭り、安産祭り、七夕まつり・七夕人形つくり、節分の豆まき、正月飾りつくりや繭ひなつくりなど、毎月のように様々なイベントを開催し、いつも大盛況でした。

P6293248学校見学のガイダンス

P7033387七夕まつりの人形つくり

地域の伝統的な文化に根差したイベントには、地域の方々だけでなく、県内外からのファンの皆様がおいでになりました。このことは、参加された多くの皆様と、イベントを支えていただいた中央市歴史文化ボランティアの皆様のおかげだと思っています。心より御礼申し上げます。

今後は新しい指定管理者と新しい職員の方々が、新しいイベントを企画しているようですので、どうぞ楽しみにしてください。

2017年3月29日 (水)

宮方(ミヤカタ)資料の行方

Photoこんにちは、まゆこです。

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当館では所有者の依頼により、2014年平成27年から28年にかけて、石和駅前の工場で蚕糸包装材料一式を製造し、日本全国の製糸会社に販売していた株式会社宮方商店(ミヤカタ)の資料を調査しました。

「蚕糸包装材料一式製造販売 株式会社宮方商店」は大正時代に横浜市中区馬車道で創業し、生糸の包装に係るありとあらゆるものを製造販売していた会社です。

その工場が山梨県笛吹市のJR中央線石和駅前に平成2610月まで操業していました。

 

Photo_3調査資料のうち、日本全国の製糸会社に販売した生糸商標の見本帳2冊については、データ収集し、画像デジタルデータ化、製糸工場別リスト等の作成を行いました。

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蚕糸包装材料一式製造販売 株式会社宮方商店商標について」という題で「シルクレポート」2016 NO.48 大日本蚕糸会に発表しています。

全国216か所の製糸工場・総数817枚ものさまざまなデザインの生糸商標が見本帳の中に貼られており、販売年月日の記載もされています。

その生糸商標を含む会社と工場資料は当館ではなく、山梨県立博物館への寄託作業が進んでいます。

Photo_4また、工場内にあった括糸(生糸の綛をまとめて縛るための特殊な木綿糸)を作る機械等は大日本蚕糸会蚕糸科学研究所、蚕糸機械メーカー有限会社ハラダの方々のお力で、山梨を旅立ち群馬県の碓氷製糸乾繭場の一角に設置されました。日本の蚕糸文化を継承するため、たくさんの方々が尽力してくださいました。

Dsc_3445←括糸を作る機械上の写真の反対側からみたところ。

Photo_5←あみそ糸を巻く機械

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山梨にあった「宮方商店」の資料は販売先であった全国の製糸会社を通じて日本中に残されていると考えられます。

「宮方」もしくは「ミヤカタ」の資料が明らかになることは、全国各地の製糸場を有した地域の郷土研究にも活用される可能性があります。

当館にも宮方資料の一部を寄贈していただきましたので、和紙製の繭貯蔵袋や社名入りの湿温計、ミヤカタ製の括糸等細々としたものですが、2階資料室を中心に展示しております。

日本蚕糸業を山梨から支えた一企業の資料を4月以降もひきつづきご覧いただきたいと思います。

後に、ご父母の残された貴重な資料を快く開示くださり、今後の活用のためご協力くださった株式会社ミヤカタ関係者、御親族の方々に深く感謝いたしております。

まゆこ

2017年3月28日 (火)

大麦で麦茶を作った

Tomiko

 富子だけんど、富士山の麓や山は雪だったねぇ。へえ4月だっちゅうにびっくりしちもうね。今日っからはホントにぬくとくなると思うけんど。

 大麦の皮を剥くのは手作業じゃあなかなかうまくいかんていうこんが分かったから、今んとこできるのは麦茶にするこんかなあと思って、麦茶作りをやってみたさ。ちっくいころ、よくお母ちゃんが、竈(くど)の上に焙烙(ほうろく)をのっけてそこで大麦を煎ってるのを見たことはあるけんど、自分でやったこんはなかったから、どういう加減でやったらいいだかよくわからんだよね。

Dscn9762jpg2 最初は白っぽい

 最初にやったときは、焦がしちゃあ困ると思って弱火にしたら時間ばっか掛かって、できあがっただかできあがらんだかそれもよくわからん麦茶になってさ。普段麦茶を入れるように沸かしたお湯をかける感じで入れたら、匂いは麦茶のにおいがしたけんど、うすーく色が出ただけでイマイチ麦茶の感じがしなかっただよね。次に強火でやったら、モクモク煙が出て、あっという間に焦げて終わりだったし。

 現在の麦茶会社での麦茶を作り方はいろいろあるようだけんど、やっぱり焙烙とかフライパンで炒るっていうのが伝統的なやりかただと思うよね。昔の人がやってたこんができんていうのはくやしいからさ。またやってみたさ。

Dscn9765jpg2 はぜて中身が見える

 中火で、煙はあんまりモクモク出さんようにして、炒ってるとだんだん茶色くなって、そのうちパチパチいってくるだよね。見ると、大麦がはぜて、白い中身が見えてきたりするさ。買った麦茶の麦の粒が、でっかく見えて、私の麦は栄養不足かと思ったけんど、実は炒ってるとふくらんででっかくなるね。麦茶会社によっちゃあ蒸してっから炒ったりするらしいから、そうなるともっと麦はふくらんで見えるよね。香ばしいにおいもするよ。

Dscn9767jpg2 袋に入れて煮てもいい

 パチパチ言うのがだんだん少なくなってきたら終わり。今度はこれを鍋に入れて煮出すさ。そうすると黄金色のきれえな麦茶ができあがるってわけ。色は買った麦茶とは違うよ。買った麦茶は茶色をしてるけんど、うちで作る麦茶は黄金色だよ。

Dscn9773jpg2 きれいな色(ビールの色に似てる)

 飲むと口の中に麦の味がふわっと広がる感じだね。飲んだ瞬間じゃなくて、ちょっとたってからね。まゆこさんや、「カワセミ」のお姉さんにも飲んでもらったら、おせじかもしれんけんど「おいしい」って言ってた。これが本物の麦茶なんだと思うよ。子どもの頃の味を覚えていんのが残念だけんど。それと子どもの頃は麦茶は砂糖を入れて甘くしてあったから、麦の味は隠れちゃってたかもしれんね。

 でっかいヤカンに作って、砂糖も入れて、井戸に吊して冷やして飲んだもんさ。館長のうちは甲府の町中だったから氷冷蔵庫があったけんど、うちは田舎だったからスイカを冷やすのもみんな井戸だったからね。

 大麦を作るのに手間はかからんし、虫も鳥も来んし、藁は畑に使えるから、あいてるとこがあったら作ってみるといいと思うよ。うまい麦茶が1年中飲めるよ。

2017年3月25日 (土)

「福塚壮蚕飼育所かな?」と思っていたけど、ここは「椚田壮蚕飼育所」だった!

Photoこんにちは、まゆこです。(この記事は平成29年3月28日に加筆しました)

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豊富公民館で発見されたアルバムの中には、稚蚕飼育所以外の写真も交じっていました。

これは多段循環式壮蚕飼育機の写真ですが、まゆこが通っていた豊富最後の養蚕家・中込文義さんの蚕室ではないです。

この写真にうつる壮蚕飼育機は3列以上あり、たぶん中込家の倍以上の生産能力があったのではないかと思います。

002推測では、この施設はうわさに聞いたことのある「福塚壮蚕飼育所」ではないかと思うのです。 

←この写真の建物は「椚田壮蚕飼育所」であるとの証言をコメント欄にいただき、現地に行って確認したところ、豊富地区大鳥居の高台に建物が現存していることが確認できました!中の多段循環飼育機はもうないそうです。

 福塚壮蚕飼育所は作興橋の近くで福田さんと塚田さんが共同で建設運営していたと聞いています。 

豊富地区には、昭和50年代に3か所の壮蚕飼育所があったことが判明しました。

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でもこの写真、よく見たら中込文義さんが写っているじゃないですか!

←蚕座紙に桑枝と一緒に巻かれて稚蚕所から運んでこられた蚕を開く中込さん

昭和50年代前半の撮影とおもわれますが、稚蚕飼育所から配蚕された直後の様子から、桑枝についた蚕を多段循環式壮蚕飼育機に移す作業が撮影されています。

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昭和50年から60年頃にかけて、安い中国産繭の単価に対抗しようと、日本の養蚕は規模拡大と機械化によるコスト削減を目指しました。

←まゆこの撮影した平成23年の中込文義さん

中込さんも自分のところで昭和56年にこの多段循環壮蚕飼育機を導入する前に、すでにあった壮蚕飼育所に手伝いに行って使い方を覚えたという話をしていたように思います。

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退職する前に養蚕関係の資料を見直していて、まゆこの知らない若い時の中込さんに逢えました。うれしいです。

 

平成6年頃撮影のお山の神さんの祭礼に繭を奉納する人の中にも、左一番手前にまゆこの恩人、中込文義さん発見! この人がシルクの里豊富の最後の養蚕家でした。

まゆこ

2017年3月23日 (木)

麦と菜の花の春

Tomiko

 富子だけんど、さきおとといはいい天気でぬくとかったから、久しぶりで畑の草取りを5時間ばっかりやっとうさ。ほうしたら筋肉痛で、痛くて痛くて、夜も寝られんでホントに困ったよう。やっと昨日はちっとよくなったけんどさ。みんなもあんまり急にがんばっちょしよ。

Dscn9754jpg2 がっしり伸びた大麦

 プランターの麦もだいぶしっかりしてきて、頼もしくなったね。10月10日に蒔いたから、へえ5ヶ月も経ってるだよね。これっからぬくとくなるから、ぐんぐん伸びるよ、楽しみだね。

Dscn9172jpg2 12月の大麦はチビだった

 これは同じ大麦の12月の写真だけんど、いかにも弱っちい葉っぱがぴょろぴょろ出てるだけじゃんね。

Dscn9759jpg2 小麦も背が伸びた

 小麦の方も一時は鳥にほじくられてどうなるこんかと思い、霜で根上がりして根っこが土の上に出ちゃって心配したりしたけんど、なんとかでかくなって良かったよう。小麦だから葉っぱが細いけんどね。

Dscn9760jpg2 根元はしっかり株別れ

 ほれでも株別れはしっかりできてるよ。一粒の小麦の種がこれだけのもんになるだからすごいじゃんね。

Dscn9758jpg2 パンジーキンセンカも

 菜の花のプランターも先が黄色くなってきたし、この写真を撮ってるときもウグイスが何度も鳴いたし。今日はあんまり天気が良くなくて寒いくらいだけんど、ウグイスは「春だよ」ってみんなに言ってるずらね。

Dscn9761jpg2 うまそうな蕾がついている

 麦が食えるようになるのはまだあと2ヶ月くらい先だけんど、菜の花はちょうどいいよ。ゆでて辛子醤油で食うと、酒の肴に最高だね。

2017年3月22日 (水)

豊富稚蚕共同飼育所

Photoこんにちは、まゆこです。

最近、取り壊された旧豊富公民館から発見されたアルバムが当館に届けられたのですが、そこに、いままで情報の少なかった「豊富稚蚕共同飼育所」の写真がいくつかありましたので、きょうはご覧いただきたいと思います。

022働く人の背後に蚕座から抜いた種紙がカゴに捨ててあるのが見えるので、まだ蚕は2齢になったばかり(ふ化して1週間くらいかな?)。

031蚕網をかけているところ。当館にもこれと同じ蚕網が収蔵されている。(稚蚕所で使っていたものだったのか?)

061刻んだ桑を自動的に蚕座にまんべんなくふりかける(給桑する)様子。蚕座がベルトコンベアーで動いているようです。

050 この写真はたぶん出荷のため、2齢眠の蚕をはりついている桑葉ごと、のり巻きのように蚕座紙でくるんで巻いて縛っているところではないかと思います。作業する人々の笑顔がいいですね。

 

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豊富地区では昭和49年、山宮に稚蚕共同飼育所が開設されました。

この施設については、1月に発行した豊富の養蚕に関する冊子「とよとみのまゆ」にも書いたのですが、実はいつまでこの施設が稼働していたかについては、資料が集められずにいたのでちょっと曖昧な表現になっています。

これらの写真は昭和57年以降に撮影されたものです。

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挫桑(桑を刻む)、給桑が流れ作業で行えるようになっている設備ラインが2つあったことがわかりますね。

   建物に、「昭和57年養蚕総合振興対策事業 稚蚕共同飼育所再編整備施設」とありますので、どうやら、昭和57年に同地で最新機械を導入して作りなおした(増設した?)設備を撮影したもののようです。

1994年(平成6年)5月12日・14日と撮影年月日が記されているものがありますので、少なくとも平成6年までは豊富で稚蚕共同飼育所が稼働していたことが判りました。

まだ豊富村内に50戸ほどの養蚕農家が存在していたころです。平成12年になると、豊富村の養蚕戸数は5戸に激減するので、たぶん平成10年になるころまでには、この施設は使われなくなったのではないでしょうか。 009

←巨大な蚕棚スペース。いったいどれくらいの収容能力があったのだろうか?

 まゆこは、設備の詳細や規模のわかる資料がどこかから発掘されるとよいのになぁといつも思っています。

まゆこ

2017年3月20日 (月)

撚りかけ車

Photoこんにちは、まゆこです。

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きょうは、うれしいことに、木原に住むともゑおばあちゃんのおかげで念願がひとつ叶いました。

「撚りかけ車」に正しく糸をセットすることができたんです!

4年前、ここに勤めはじめの頃、この道具は何という名なのか、何をどうするための道具なのか全くわかりませんでした。

織物の関連の本を調べても同じような形態の道具が見当たりませんでした。

でも当館に5点ほど収蔵があるし、豊富地区で古民家を解体する時にも屋根裏に放置してあったりしたので、この地域でよく使われた道具であることはわかりました。

Dsc_0644←「養蚕をたくさんして、桑爪をずっとつけてたからこんな指になってるさ」と笑いながら教えてくれた、ともゑさん。

このたび、近隣の方々に尋ねるうちに伝手ができて、実際に使っていたことがあるという、豊富地区木原のともゑおばあちゃんにやっとたどり着くことができたのでした。

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しかし、実際に糸をかけてもらうまでには欠損している部品の補修や付属部品や糸などを調達するのにちょっと時間がかかってしまいました。

この撚りかけ車というのは、糸に撚りをかけ、機織りにかける決まった長さの経糸(たていと)を同時に数本作る道具です。

竹管に巻いた糸を錘(つむ)にセットしハンドルを回すと、糸に撚りがかけられ、最上部の大枠に一定の長さで巻き取られるのです。

まずは、片側に大小4つ付いている調車にどのように調糸をかけるかを教えてもらいました。

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次に、糸車を使って糸を巻いた竹管を錘(つむ)にセットしてから、糸道を通していきます。

その途中では、オモリの代わりとなる「しずわ」とよばれる輪っかのような部品にも通すのですが、当館所蔵の撚りかけ車のしずわは竹製と陶器製の

2種類があります。

資料によって竹管をセットできる錘の数も4~6本と違いがあります。

ともゑさんの話によると、「豊富地区の機織りに関する道具(撚りかけ車、機織り機など様々なもの)は同地区川東(かわひがし)の田中千代吉さんという宮大工が昭和30年代くらいまで製作販売していたと思う」とのことでした。

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これは、山梨か地域固有の民具の可能性があります(南アルプス市のふるさと文化伝承館にも1点あるのを観ました)。

当館資料の持つ地域性と資料数の豊富さが民具学に新たな知見を与えてくれる可能性もあります。

糸をセットした状態の撚りかけ車は2階常設展示室機織り機の横にありますよ。今度よ~くご覧になってみてください。

効率よく糸に撚りをかけるために先人の匠が生み出したその仕組みと技、機能美にうならされます。

「撚りかけ車」については調査と研究が必要だと考えています。

撚糸をするための民具として、全国的にはどのようなものがあるのか等、類例を捜すことも重要だと思っています。

まゆこ

2017年3月19日 (日)

日本で初めての音楽教科書

Tomiko

 富子だけんど、あとちっとで今年度もおしまいだねぇ。プランターの麦もだいぶしっかりしてきたよ。菜の花も今食えば一番うまそうだけんど、花を育ててるから指をくわえて見てるだけんどね。

Dscn9747jpg2 唱歌の小学校師範学校中学校教科用書

 教科書のケースを整理してたら、音楽の教科書の解説に「『君が代』が2番まであることがわかった」って書いてあったから、しげしげとながめたら、メロディーも全然違うし、歌詞も長いだよね。

Dscn9749jpg2 「君が代」のページ

 教科書の奥付を見たら、明治14年11月に初版が発行されていて、展示品は明治22年10月の4版らしいだけんど、値段の所に「臨時定価 大正10年度 26銭」ていう赤いはんこが押してあるから、これを買ったのは大正10年のことずらね。明治22年の定価は12銭だからえらく高く売ってるよね。

 買った人は誰かというと、ここの資料館の初代館長で志村量美さんていう人さ。その人が師範学校時代に買ったもんだね。表紙をめくると「小学校師範学校中学校教科用書」ってあるから、師範学校で音楽の授業の仕方を勉強するのに使ったずらね。

Dscn9751jpg2 教科書の奥付

 三重大学付属図書館で明治の初めの教科書のことをこう書いてるさ。「音楽の授業は明治14年から始まるが、指導者も設備も不十分で、当分実施しなくてよい科目の状態が続き、必修となったのは明治40年からだった。教科書は明治14年11月(1881)『小学唱歌集初編』が刊行されたが、当初は不足し、明治25年頃から充実し始める」だって。

 この教科書を作ったのは当時の文部省音楽取調掛初代所長伊沢修二という人たちだけんど、取調掛っていうのはすごいね。音楽にそぐわない係名だよね。それで出版社はどこかというと「大日本図書」ってあるだよね。大日本図書のホームページを見ると明治23年創業ってあって、じゃあこの音楽の教科書はいったい誰が出版した?って、?がいっぺえついちもう。なんたって日本で初めての音楽の教科書だよ。

Dscn9746jpg2_2 教科書の表紙(和紙和綴じです)

 この教科書に知ってる歌はあるかと思って探したら、「君が代」の他には「蛍の光」と「ちょうちょ」があったさ。他にも「むすんでひらいて」とか「霞か雲か」とか「庭の千草」とかがあるらしいけんど、第2編とか第3編に入ってるかもしれんね。

Dscn9753jpg2_2 志村さんの名前が残っている

 それで「君が代」に話はもどるけんど、明治14年の『小学唱歌集』には長くて、2番まである「君が代」が載ってて、明治23年の『生徒用唱歌』っていう教科書には3番までの歌詞のある「君が代」があるらしいよ。ここの資料館には残念ながらその本はないけんどね。4番のある「君が代」もあったりして、まあ今みたいになったのはだいぶ新しい時代の話ってことだよね。

2017年3月16日 (木)

和宮下向当分助郷身分証明木札

Tomiko

 富子だけんど、朝、資料館へ来る途中の山も木も、ぼんやり緑っぽくなってきたよ。今日はうれしいこんがあったさ。私の家族が見に来てくれただよ。私の本名は「殿岡うたの」っていうだって。この資料館を作るとき、蚕もみんな殿岡家から引っ越してきたさ。本人は引っ越しては来れんから、私はマネキン人形だけんどね。

 今日は今までずっと気になってはいたけんど、手に負えなかった「和宮下向当分助郷身分証明木札」を見せるね。皇女和宮が徳川家茂と結婚するに当たって、京都から中山道を通って江戸まで下向したときの荷物運びに、山梨県中の村々から人足を出したときの身分証明書だよ。なにしろ2万人からの行列だから、荷物も半端じゃないわけさ。

Dscn9648jpg2 身分証明木札

 50枚近くの木札があるだけんど、今まで1枚1枚違うこんが書いてあったらそこで降参だと思って、さわらなかったさ。だけんどよく見たら、みんな同じこんが書いてあるさ。

Dscn9649jpg2 身分証明木札の裏表

 たぶん右側が表で、「田安 御領地 御用」って書いてあって、裏は左側のように「甲州 八代郡 上大鳥居村」って書いてあるさ。上大鳥居村って言っても、下大鳥居村は豊富にゃあないよ。要するに豊富の大鳥居ってこんさ。これを腰にさげてれば、怪しいもんじゃないっていうこんだよね。

Dscn9652jpg2 大鳥居村の文久元年助郷帳簿(コピー)

 木札は50枚くらいしかないけんど、大鳥居からは182人の人足が長野県の佐久を通って八幡宿と坂本宿に行ってるだよね。坂本っていうと妙義山の麓みたいなとこで、車で行ってもやんなるくれえ時間がかかるに、昔の人はよく歩いて行ったもんじゃんね。そういう詳しいこんがわかるのは、上の写真の帳面があるからさ。これはコピーで本物は甲府の人が持ってるだけんどね。人足で出れば日当をもらえるけんど、旧暦の11月の長野県だよ。寒かっつらね。着るものをたくさん着てくようにっていう代官所から注意もあったらしいよ。帳面を見ると薪とか炭とかも買ってるから、向こうで使ったずらか。野宿をしたって書かれたもんもあるけんど、野宿をしんように小屋を建てろっていう命令もあったらしいだよね。

Dscn9650jpg2 中楯村の文久元年助郷関係帳簿

 これは同じときの「中楯村(中央市中楯)」の諸帳簿で、村中みんなでその費用を割って負担した一人一人の石高や支払った金額が書いてあったり、何にいくら使ったかっていうようなことが細かく書いてあるさ。まだ中身を読んでないから、宿題にしてもらうこんにして、大鳥居の計算で行くと、一石に付き7匁7分っていうから、5石くらいの家だと1万円くらいの負担をしたじゃあねえかなぁ。

 よその町村誌を読むと、割り当ての人数の一部しか山梨からは行かなんで、地元の人を金で雇って済ませる場合もあったみたいだね。当然その費用は村のみんなで負担するだけんどさ。もっと詳しく比べてみんと正しいこんは言えんけんど、村によって人足の日当も違えば、負担金も違うようの気がするだよね。「米倉村(旧八代町米倉)」じゃあ1石に付き9匁4分で全体では約100両だって。

 よく黙って負担したよね。金もだけんど、労働力もね。木札も帳面も黙って並んでるけんど、きっともっとなんか言いたいよね。早く代わりに言えるように頑張らんとだめだよね。

2017年3月15日 (水)

地獄温度にお馬さん発見!

Photoこんにちは、まゆこです。

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蓋の取っ手に「駆ける馬!」

きょうは、富子さんの部屋で、ある新発見をしました。

3月いっぱいで退職するのに、いまごろかい?と皆さんにお叱りを受けそうですが、今まで悔しいことに気づいてなかったんです!

富子さんの部屋の隅にある地獄温度の蓋の上でお馬さんが駆けていたことを!!

ちなみに地獄温度とは、豊富の地で使われていた言葉で蓋つきの養蚕用火鉢のことをいいます。

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5月半ばからの春蚕では、蚕室の暖房用に炭を燃料とする蓋付火鉢が使われました。

取っ手付きで配置や数の増減も容易なので温度管理にはとても便利でしたが、一酸化炭素中毒になる人も出て、地獄温度とも言われたんです。

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それから、今日の主役の馬ですが、お蚕さんと馬の間には古代からの深い関係があります。

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古来中国から伝承した蚕の起源伝説

(「捜神記」馬娘婚姻譚) がベースとなり、日本に広く伝承されるに従って養蚕の信仰に馬が深くかかわっていったのです。

「繭のなかに大当たり」の意匠もついている

馬にまたがった菩薩像として表現される馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)も養蚕信仰の対象として有名です。

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「あ~、もっと早く気づいていればぁ~、あの企画にも使えたのにぃ~」とか、この期に及んでいろいろと後悔が沸き起こります。

でもこの地獄温度は当館養蚕資料の逸品であることだけは、ここでご紹介しておきたかったまゆこなのでした。

まゆこ

中には煤がこびり付いていて、ちゃんと昔の人が使った跡があるよ!

Dsc_2117_2いま富子さんの足元にある蓋付きの養蚕火鉢が馬の刻印のあるやつです!富子部屋って2階のここね!

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