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2016年8月24日 (水)

蚕の種がやってくる(昭和30年頃)

Photoこんにちは、まゆこです。

前回、昭和初期までの蚕種の通販について書いたので、今回も蚕種に関連する昭和30年の資料をご紹介したいと思います。

豊富村では、昭和初期から集落単位で製糸会社と特約契約を結んで繭の出荷をすることがはじまりましたが、昭和24117日に集落単位に19の養蚕組合が設立され、蚕種の共同購入や災害等に備えた共済基金の積み立てなどを行うようになりました。

当館には、その東八代郡豊富村養蚕農業協同組合の昭和30年の写真アルバムが収蔵されています。きょうは、それらの写真から読み取れる当時の蚕種の分配について、ご紹介したいと思います。

豊富村の組合長会議で蚕の飼育開始日(掃き立て日)が決まると、その日に合わせて蚕種業者から「掃き立て紙」を挟んだ「ばら種容器」が豊富村組合本部に届きます。

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←業者から届けられた蚕種が組合建物の軒下に並べられている。2万粒の種が「ばら種容器」1枚に入る。

Dsc_0557 ←ばら種容器:当時は2万粒(10g)の種が入っており、輸送用の容器として使用された。大正6年頃から使われ始めた。

069 ←注文した蚕種を引取りに来た養蚕家たち。蚕種業者が「皆様、追加注文はありますかね』と声をかけているとの記述あり。

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 ←アルバムによると、昭和30年当時に豊富村が取引していた蚕種業者は、山梨蚕種、南信社大井出張所、大竜社山梨出張所、信濃蚕業豊富出張所の4社です。

集落ごとに特約契約をしている製糸会社から指定された蚕種を使用する場合も多く、来館された南信社関係者から聞いた話ですが、当時は「太平×長安」という大粒の繭ができる品種をよく納入したそうです。

066 ←蚕種が大きな風呂敷に包まれ、背負われている。豊富の各家で大量に掃き立てていたことが判ります。

072 ←我が家に届いた蚕種を囲んで。今日からはじまる蚕の飼育に、届いた蚕種を囲んだ家族の表情からは、わくわく感が伝わります。 

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 ←以上の写真はすべてこの昭和30年につくられた貴重な養蚕組合のアルバムに納められたものです。

ただいま開催中の「最後の養蚕家と豊富」という企画展準備を行う中で、古民家を解体することになった水上家より発見され、寄贈いただきました。

このアルバムの中の養蚕風景は50点以上ありますが、その後の養蚕技術の進歩に伴い、昭和50年代以降とかなり違っています。

昭和30年当時の養蚕の実態や技術を知ることのできる貴重な資料をいただきました。

企画展が終了した後も、当館に収蔵されている蚕具と合わせて養蚕技術の進歩をわかりやすく紹介できるよう、展示に生かしていきたいと考えています。

もちろん、こちらのブログでも順次ご紹介していきますからね♪

まゆこ

2016年8月21日 (日)

大正・昭和の蚕種通信販売(蚕種注文葉書と郵送用紙筒)

Photoこんにちは、まゆこです。

きょうは、明治から昭和初期頃までの養蚕家が、蚕種(蚕の卵)をどのように手に入れていたかを物語る資料をご案内します。

当館には、大正9年に豊富地区の養蚕家に蚕種屋から届いた注文用の往復はがき3通を収蔵しています。

落ごとに一括して注文するようになる昭和初期までは、家ごとに蚕種屋から注文用のはがきが届いていたようなのです。

3通とも大鳥居水上の水上豊次郎さん宛に夏秋蚕期用の蚕種販売のために出されたものです。 そのうち1通は返信用の注文書に記入したものの、切り取られていないことから、結局注文しなかったことが判ります。

T9188蚕種注文用往復ハガキ①裏:大正9年に、蚕種屋である中巨摩郡二川村の笛水館芹澤保次郎からとどいたが、返信しなかったもの。

T9187蚕種注文用往復ハガキ①表:水上豊次郎さんは注文書に記入したものの、切り取らずに返信しなかった。


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蚕種注文用往復ハガキ②左:はがきを送った蚕種屋は、東八代郡石和町の甲信館末木幸太郎。

蚕種注文用往復ハガキ③:蚕種業者は東八代郡富士見村の富士見館小林徳一。

また以上の3通それぞれの文面を読むと、この年の春蚕期は大凍霜害があったこと、販売蚕種の種類には様々あり、繭の色も白の他に黄色のものがあったりと、大正時代までは各戸自由に選択・注文して育てていたことも知ることができます。

以上3通の蚕種注文はがきは、現在開催中の企画展「最後の養蚕家と豊富」で展示中です。

 

 

さてもう一つ、蚕種屋は注文を受けると、どんなふうに蚕種を発送したか?という問題ですが、それはこちらの容器、「蚕種郵送用紙筒」を見てください。

Dsc_0528ありがたいことに、この資料はつい最近、寄贈していただいたものです。

はがき注文により蚕種屋から発送される際、蚕種を付着させた紙を丸めて紙筒の中に収納し、郵便で発送したもようです。

この紙筒は蚕種発送用に上田市紺屋町の業者が特別に作っていたもののようですね。

紙筒(小)に記されていた差出人の住所長野県更級郡力石村(現千曲市)は調べてみると、かつて蚕種の産地でした。

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蚕種郵送用紙筒(小)外径75㎜、長さ248㎜の厚紙製。届け先の宛名「東筑摩郡日向村上井堀 飯森美澄 殿行」差出人「長野縣更級郡力石村七十一番地 蠶種製造業 山崎善太郎」その他表書き「蠶種二枚在中」「昭和三年七月一日発送」「長野縣上紺屋町 森川製造」、蓋表書き「蠶」「水火高温ニ御注意・・・」「(農産物種子)」

蚕種郵送用紙筒(大)外径95㎜、長さ250㎜の厚紙製。届け先宛名「東筑摩郡日向村上井堀 飯森美澄 殿行」差出人不明、その他表書き「(農産物種子)」「蠶種四枚」「長野縣上田市紺屋町 中村式蠶種輸送器製造 中村紙器製造所」、蓋表書き「至 水火高温ニ御注意ヲ乞フ 急」

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この2つの蚕種郵送用紙筒に記載されている内容は興味深いものばかりで、これらの情報をもとに、蚕種屋さんや注文した養蚕家の足跡を追って、現在の長野県千曲市や上田市に出かけたくなります。

今のところ、残念ながら山梨県内を経由した蚕種郵送用紙筒を当館では収蔵できていませんが、富士山の風穴で保存していた蚕種は、隣町の中道地区にある右左口局を発送起点として大量に郵送されたという文献があるので、今後の資料発掘に望みをかけたいと思います。

ところで、現在でも、繁殖用の蚕種は第四種郵便「植物種子等郵便物」として発送できるそうですよ。

これも現代に残る、日本養蚕史の歴史の一つですね。

まゆこ

2016年8月20日 (土)

日の本式両面製蔟織機の使い方を教えてもらった

Photoこんにちは、まゆこです。

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先日、長野県の駒ケ根シルクミュージアムさんで開催されている企画展「蚕と蚕具の歴史―先人の知恵に学ぶー」にお邪魔して、針金で縛るタイプの改良藁蔟(かいりょうわらまぶし)製造器について、教えてもらいました。(蔟とは、蚕に繭を作らせる場所となる道具です)

実際に動くところを見せてもらえる展示は、ほんとうに素晴らしく、感動しました!

駒ケ根シルクミュージアムは長野県駒ケ根市にありますが、養蚕、製糸の歴史から最新のカイコの研究に至るまで幅広い視点でシルクをとらえたすばらしい博物館です。

まゆこが3年ほど前に伺った際に、ここの館長でいらっしゃる関先生と竹内学芸員とお話しさせていただく機会を得ました。

その後、我が館養蚕部門の展示研究活動において、日頃からご教示いただいたり、様々な相談にのっていただいたりとお世話になっています。

今年はじめて飼育した虎蚕と黒縞の蚕種をわけてくださったのも駒ケ根シルクミュージアムさんなんですよ。

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今回は、当館でも展示している改良藁蔟織機の一種を実際に使用してみることに成功したというお話を聞き、さっそく観に行ったわけです。

駒ケ根シルクミュージアムの企画展示室で関館長とこの器械のメンテナンスをおこなった細田さんが実際に藁蔟を織って見せてくれました。

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右手のレバーを手前に倒すと、タテに何本もセットされた藁束に針金が巻きついていくのですが、途中、一定の間隔で横に藁を通してやると、梯子段のように編みあがるという仕組みです。

そして、これを蛇腹にたたんでクセをつけておくと改良藁蔟が出来上がるわけです。

←駒ケ根シルクミュージアムにて。関館長と細田さんが実演してみせてくれている(関館長が横藁を通している)ところ。 ここまで動かせるようになるまでに、大変な試行錯誤と労力がかかったそうです。きっとこの成果は、これから全国の同資料を持つ館の職員の役に立つはずです。スゴイ!

この道具は大手蚕具メーカーが昭和初期から戦前位まで全国に販売していたものと思われ、旅行先の民俗系資料館や博物館でよくみかけますし、当館にも展示してあります。

しかし、実際の取り扱い方法がわかりませんでしたし、部品の一部が錆びついていたり、ゴム部品が劣化していたりと、動かしてみることさえできませんでした。

Dsc_0555 ←我が豊富郷土資料館収蔵の「日の本式両面製蔟織機」 残念ながら当館資料には、横に藁を通す部品が欠損していることが判明した。

Dsc_0552 ←当館収蔵の「日の本式両面製蔟織機」のレバー。これを手前に引くと(写真では左に引くと)、何個もの歯車が同時に回転して針金が藁に巻きつけられていく。

 口や文章でうまく説明できないのがもどかしいのですが、実際にこれを使って、ガチャンガチャンと藁が織りあがって改良藁蔟が出来上がっていく様を観るのは面白いです。

特別にまゆこも操作をさせてもらって大感動!

道具の動態展示は重要だなぁと改めて感じ入った次第です。レバーひとつでいくつもの歯車が連動する様はとてもメカニックな感じもしますが、「歯車がこう動いて、こんな風に作用するのね」とすべての動きや仕組みがみてとれ、すぐに理解できるところがアナログ的な感もあり、とても面白かったです。大変勉強になりました。

 無理を言って動画も撮らせてもらい、使い方はばっちり理解できました。今後の展示解説の生かしていきたいと思います。

関館長、竹内学芸員、細田さん、お世話になり、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

(竹内学芸員の書いている駒ケ根シルクミュージアムさんのスタッフブログはとっても興味深くて面白いですよ♪是非ごらんあれ!)

まゆこ

2016年8月18日 (木)

とまちゅうバスで来館

Photo こんにちは、まゆこです。

きょうは、中央市が主催したイベントが行われ、市内を循環しているとまちゅうバスを利用して、15名のお客様が当館に来てくださいました。

P8183583今日は特別に中央市の名産トマトの妖精「とまちゅう」が資料館前でお出迎え。

Dsc_0525やってきてくれたお客様と握手を交わす「とまちゅう」

Dsc_0523今回は養蚕について詳しく学ぼうというテーマなので、館長が富子さんの部屋の前で詳しく説明しています。

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1階に降りてきて虎蚕の生態展示をを観察したり、糸取り等の体験もしました。

このほか、当館隣りの施設の「しるくふれんどりぃ」にて温泉に入ったり、食事をとったり、目の前にある「シルクの里公園」の繭形のトランポリンで遊んだりと、思い思いに楽しんでいただけたようです。

今後もたまには、とまちゅうバスを使って、遊びに来てほしいです。ゆっくりのんびりできますよ!

まゆこ

2016年8月17日 (水)

小豆の脱穀

Tomiko

富子だけんど、久しぶりでごいすよ。台風が困るじゃんね。うちの方は、いいおしめりで良かったけんど、関東・東北の方じゃ大変だったねぇ。

Img_9384jpg2 収穫した小豆

小豆は根っこから抜いて収穫するのが普通だけんど、プランターで作ってる程度じゃあ、熟した実から収穫してった方がいいだって。ほんだからここ2週間くれえ茶色くなってる実を見つけちゃあ取ってきてただけんさ。小豆の木も枯れてきて、葉っぱもどんどん落ちて、へえ収穫する小豆もなくなったから、脱穀をしたさ。

Img_9386jpg2_2 小豆の脱穀

 シートの上で横槌で叩いていくと、殻が割れて中から赤い小豆が転がり出すさ。そのあとふるいにかけて殻をとって、水で洗ってごみを取ってきれいにしたさ。小豆の脱穀は他のもんと比べると手間がかからんで楽だね。

Img_9388jpg2 小豆がとれた

 もうひとつ小豆のこんで実験したこんがあるだけんどさ。インゲン豆は鞘が緑のうちにゆでたり煮たりして食うとうまいじゃんね。ほんだから小豆も鞘が緑のうちに食ってみたらどうずらと思ってやってみたさ。鞘が緑の小豆の鞘をむいてみると、緑の豆が入ってて、インゲンと変わらんじゃんね。小豆も若いうちは赤じゃなくて緑だね。

Img_9366jpg2 若い小豆

 ほんだからゆでてマヨネーズをつけて食ってみたさ。「なんだか、甘い感じがする。」「鞘が口の中でこそこそする。」「やっぱりインゲンの方がうまい。」っていう感想で、やっぱり小豆は固い豆にしてっから食うのがいいっていうことになったさ。

 

2016年8月16日 (火)

お蚕情報ー初秋蚕の飼育状況

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初秋蚕の錦秋×鐘和の7~800頭は人工飼料の70頭が8月11日頃、予定通り上族をはじめました。上族とは蚕が糸を吐いて繭を作り始めたので、蔟(まぶしーぞく)に入れてやることです。13日には本格的になり、ちょうどお蚕セミナーに来ていた子供たちが、目を光らせながら熟蚕を蔟に入れてくれました。
しかし、13日の夕方になってもまだまだ桑の葉を食べている蚕と、糸を吐き始めた蚕が混在していたので、桑の葉の上に回転蔟を置いて帰りました。14日は、大部分の蚕が蔟へと移り、繭をつくり始めたのですが、桑の葉の中で作ってしまったものもいました。本当は一晩中面倒を見られたらよかったのですが、夕飯と晩酌の都合で、ちょっと手荒な方法をとってしまいました。勘弁ね~

P8163568 回転蔟へ移動

P8163569 2頭が一緒に繭づくり

P8163570 まだ散歩中の蚕

P8163559 わら蔟で繭を

本日16日になると、ほとんどが回転蔟の中に入りましたが、まだ散歩している蚕もいます。蔟をよく見ると、2頭の蚕が一つの繭を作っているところもありました。玉繭ができそうです。
散歩しすぎで体力の落ちた蚕は、わら蔟に移しました。小さい繭を作ったり、まだうろうろしているものもあります。どうなることやら、秋の蚕は気難しいのかも・・・

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もう一つ虎蚕も次第に成長しています。7月18日に冷蔵庫から出して、催青(卵から目覚めさせること)を開始しました。孵化は7月29日でした。今は5齢となっていますが、大きさでいえば5cm位になったものと、小さいものでは2cm、中くらいでは4cmのものが入り混じっています。どうしてこんなことになったかはよくわかりませんが、孵化の時間差や、脱皮の時間差などがさまざまに影響して、揃えられなかったことが原因かもしれませんね。繭を作る時期も当然バラバラになるでしょうが、長い期間、蚕を入館者の方々に見ていただくにはよいかもしれません。

負け惜しみだ~

2016年8月13日 (土)

「お蚕さんセミナー」大盛況です

本日、13日の午前中に開催されたセミナーに県内外から15名の家族が参加してくれました。最初に集合してスケジュールを確認した後、「繭のできるまで」というビデを見てもらい、蚕が繭を作る一生を学んでいただきました。

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続いて、蚕の成長がわかる模型と絹糸の展示室を見学し、富子さんの家のジオラマのまえで、昭和30年代の養蚕農家の暮らしや道具の説明がされました。
そのあと、企画展「最後の養蚕家と豊富」の解説や蚕神さんの説明をして、いよいよ、糸取体験とクラフト体験です。

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糸取体験は古い糸繰機を使いゆでた繭から糸を取り出します。糸は1000m以上あります。クラフトは繭を使った「おぼこさん」と、絹の端切れを使ったストラップ作りです。親子でそれぞれ作って、乾かす間に、今度は生きた蚕への桑の餌やりです。

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かわいがって背中をなでる子や、手のひらに乗せる子がいました。ちょうどこの時に、お蚕の一部が繭を作る態勢になり始めました。子供たちも、蚕の肌の色や口から糸を吐いている様子を観察しながら、繭づくりの準備ができた蚕を、回転蔟へと運んでいれてくれました。
このイベントを生放送していたYBSのスコーパーのYさんも、恐る恐る蚕に触って、黄色い声をだしていました。子供たちもその姿を見て大喜び?でしたよ。

明日もセミナーを開催します。参加希望の方は、朝9時半までに電話(055-269-3399)でご連絡ください。

2016年8月10日 (水)

第3回歴史文化講座『地方病終息宣言20年』を開催します

来月の9月10日午後1時30分より、当館において表題の講演会を開催します。

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本年は地方病終息宣言20年となります。
地方病の正式な名称は「日本住血吸虫病」と言いますが、古来より「原因がわからず、腹が膨れてやせ細り、やがて死に至るこの病」は『水腫張満』と呼ばれていたそうです。
明治14年(1881)8月27日のこと、当時の東山梨郡春日居村の戸長(村長)と衛生委員が連名で、当時の県令(現在の知事)であった藤村紫朗に提出した『御指揮願』は、「多くの村人がこの病気にかかり、悲嘆に耐えられないので、発生地域の地図をもとに、実地検査をお願いしたい」というものでした。今を去ること135年前です。

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しかし、その病原菌について長い間不明で、奇病・魔病として恐れられていたのですが、大正2年(1913)にミヤイリガイを中間宿主とする日本住血吸虫が体内に侵入することが原因であることが特定されました。
昭和町西条新田の杉浦医院の杉浦健造とその娘婿三郎は、特定条件で皮膚感染をする寄生虫病であることを住民に伝えるとともに、予防が重要であり、私財を投じてミヤイリガイ撲滅への活動を始め、やがて全県下に広まり「山梨県地方病撲滅期成組合」の結成へとつながったのです。
昭和51年、渡り鳥の楽園として知られた旧・田富町の臼井沼も、一面のアシ原でしたが、ミヤイリガイの生息地として埋め立ての要望が強まり、同年6月29日の県議会の決議を経て、ふるさと公園や学校敷地へと生まれ変わりました。埋め立て決議から40年の歳月が流れたことになります。

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永い間、地域の人々が苦しみ、杉浦医師などの奮闘のおかげで、今は安全な地域となった甲府盆地南部の歴史を、現在の『昭和町風土伝承館杉浦醫院』館長中野良男先生のお話を伺い、学びませんか。申し込み不要、入館料免除となります。

2016年8月 9日 (火)

ミニ企画展 「帽子 ~暑いまぶしいさて何をかぶろうか?~」(2)

日本の帽子の歴史

古墳時代

 帽子の前身らしいものはそれ以前にもあったと思われます。古墳時代の埴輪には、帽子をかぶったものがたくさんあります。

 写真の埴輪は群馬県の保度田古墳群で復元展示されている埴輪です。帽子の人は正装している感じです。もう1枚の写真は東京国立博物館に展示されているもので、これも正装の男子です。

Jpg2 保度田古墳群の埴輪

Img_9344jpg2_3 東京国立博物館の埴輪

奈良時代

 朝廷に属する官人が制帽として冠をつけるようになったのは聖徳太子の冠位十二階制ができてからと考えられています。冠位十二階が制定されると、冠の色は地位を示すものになりました。そして、儀式の時は冠をかぶり、ふだんは圭冠(はしばこうぶり)という帽子をかぶります。こうしたステータスシンボルから出発したかぶりもの着用は、やがて成人男子のあかしといえるような存在となりました。平安時代には庶民に至るまで頭にかぶりものをつけ、露頂を恥とする文化が生まれたのです。

平安時代

圭冠にかわって烏帽子(えぼし)が登場します。百人一首や絵巻物でおなじみのものです。

やはり儀式の時には冠をかぶり、ふだんは烏帽子をかぶりました。烏帽子は今も神社の神主の装束や相撲の行司の装束に見ることができます。

女性は外出するとき、被衣(かつぎ)というものをかぶりました。着物ですがかぶるために作られた着物で襟のつく場所が普通の着物と異なります。また市女笠(いちめがさ、またの名を虫の垂れ絹)をかぶることもありました。

Dscn5131jpg2_2 流鏑馬の綾藺笠

Dscn5110jpg2 流鏑馬祭りの神事

鎌倉時代から安土桃山時代

 烏帽子よりも日よけになり、手軽にかぶれる笠が外出や野外労働には欠かせないものになります。武士の狩猟や旅、流鏑馬などには綾藺笠(あやいがさ)と呼ばれる笠が使われました。髻(もとどり)を入れるために真ん中が高くなっています。南アルプス市で行われている流鏑馬では、綾藺笠をはじめとして、鎌倉時代頃のさまざまなかぶりものをつけた人たちが登場します。流鏑馬それ自体もすばらしいですが、装束などにも目を向けたいですね。

 戦場に出る時に兜をかぶれるのは身分のある人だけでしたが、萎烏帽子(もみえぼし)という柔らかい布で作られた烏帽子をかぶり、その上から鉢巻きを締め、さらに兜をかぶりました。しかしうち続く戦乱のために、徐々にかぶりものをつけない風がおこります。

女子の間には桂包(かつらつつみ)が行われました。

2016年8月 8日 (月)

名車スバル360「てんとう虫」きたる

8月6日の夕方、看板を取り込んでいると、不思議な車が目に入りました。あの名車「スバル360」です。とても綺麗で、ぴかぴかです。痛んだところは一つもありません。写真をとっていると、風呂上がりの男性がやってきました。話を聞くと探して購入したとのこと。三角窓を開けて、鈍い低音のエンジン音を残して走り去ってしまいました。かっこいい~

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スバル360は愛称「てんとう虫」と呼ばれ、1958年に製造開始され、1970年まで販売されたそうです。2016年に日本機械学会により機械遺産として登録されたのは、初代のスバル360です。
また来てくれるといいね~

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